道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

熊石町 1964年(昭和39年) 18分 白黒 音声なし          

熊石町は平成17年に太平洋側(噴火湾)にある八雲町と合併。
檜山振興局の管轄でしたが、八雲町となったため渡島総合振興局となります。
檜山振興局は北部のせたな町・今金町と乙部町・江差町の南部に二分され飛地となりました。

せたな町の大成区からポンモシリ岬を越えると旧熊石町に入ります。この岬を越えると関内になりますが、この地は元禄4年(1691年)に番所が設けられていました。蝦夷地に和人が増えるにつれ、アイヌと和人との紛争が頻繁に起こるようになります。そこで松前藩は道南地方を和人地とアイヌの蝦夷地に分けて、摩擦を避けようとしました。
熊石がその境界にあり、相沼に関門を設け、番所を熊石におき「関内」を境として蝦夷地との交流をおこないました。この時点で熊石は明治に至るまで「日本の最北端の地」となったのです。
映像に音声がありませんから、このことを知っていると画像が分かります。

道南霊場「門昌庵本堂」が出てきます。
これは松前家の菩提寺住職柏巌峯樹和尚が蠣崎一族の権力争いに巻き込まれ、女色ありとの讒言により熊石に流刑を命ぜられ、翌年の延宝6年(1678)斬首されました。その時、川の水が勢いよく逆流し、突然の嵐になる等の変異が続き、祟りを恐れた藩は柏巌和尚の首を庵の側に手厚く葬りました。
この庵は柏巌和尚の号をとって「門昌庵」と呼ばれ、以後松前藩は丁重に取り扱い、供養を続けたそうです。この事件を俗に「門昌庵事件」といいます。熊石に伝説として残されています。

くまいし町名の由来は、アイヌ語のクマウシ(魚を干す竿のあるところ)の説があります。
鰊漁による蝦夷地の繁栄は江戸や大阪等にも北前船をとおして伝えられ、熊石にも当時の新しいたくさんの文化が伝わってきていました。

昭和39年当時も漁業が主体で、熊石漁港には大漁船が入ってきて港は総出で魚の網外し風景一色です。漁場は陸が見える沖での作業であることがわかります。獲れるのはカレー・ボタンエビ・エビなどで、この映像の最初に子どもたちがウニを割って食べているシーンも映されています。
他の産業として、種豚・苗畑でした。

現在の主要魚種は、すけとうだら、いか等の回遊魚で生産額全体の約80%を占めているといいます。
流石に鰊はありません。松前町から鰊漁が江差、乙部、熊石と北上し、とうとう鰊漁が慢性的不漁に陥ると、蝦夷地に和人が北上し漁労に出るようになっていったといいます。

根崎神社
毎年8月14日〜15日(13日が宵宮)に斎行される根崎神社の例大祭が映されています。江戸時代から明治にかけて、鰊(ニシン)漁場として栄えた熊石、絢爛豪華な神輿は歴史を語っています。
北前船で栄えた江差町の姥神大神宮渡御祭に並ぶ北海道最古級の祭礼といえるでしょう。

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写真は門昌庵本堂です