襟裳岬から十勝に向かう庄野までの、15㌔におよぶ砂浜続きの海岸を百人浜といいます。かつてNHKプロジェクトXでも紹介された浜で町の名所の一つです。
百人浜の由来については、南部藩の御用船が遭難して乗員百人が死亡したなど諸説あります。本当のところは解明されていませんが、文化元年(1804年)、村人たちが百人の死を弔い小石に経文を一字ずつ刻んで建てたという供養碑があります。
この百人浜を舞台にした吉村昭の小説「海の柩」があります。
「村落の者たちは、なにが起こったのか知らない。ただ手のない無数の水死体が、岩だらけの海岸に、大きな魚の死骸のように漂着したのを見ただけなのだ。/村落の背後には、北海道の巨大な背骨にも似た日高山脈が迫っている。」
実は、この小説の舞台は旧JR日高本線の厚賀駅の浜でした。今は廃線となり無くなりましたが、苫小牧からの高速道路の終点出口が厚賀になっています。
「海の柩」は吉村昭が、厚賀を訪れ大学ノート何冊も取材をして書かれた小説です。小説にあたっては舞台を厚賀ではなく百人浜に変えています。
「戦時中に襟裳岬に近い海岸に将兵を乗せた輸送船が、アメリカ潜水艦の雷撃で撃沈された話を聞いた。そのことだけなら、私はその海岸に赴く気も起らなかったろうが、沈没した船から上陸用舟艇に移った将校が、舟べりにしがみつく兵たちによって艇が沈むことを恐れ、軍刀で兵たちの手を斬って海辺の漁村に上陸したという」
撃沈されたのは襟裳岬から30㌔ほどの沖合で、将校たちが救助されたのは様似町の海岸であり、手の無い死体が漂着したのは厚賀町だったということです。
10年ほど前になりますが、厚賀町を訪れたことがあります。
厚賀の海岸に碑が建てられているのではないかと思ったからです。しかし、浜には何もありませんでした。
吉村昭が調べた記録によると、死体が上がった厚賀に軍の兵士が駆けつけ死体を全員運び去ったとありました。戦時中のことですから、戒厳令が村人に布かれたのでしょう。