後で分かったことですが、一夜のうちに出現した湖は37、そのうちのいくつかは何年ものあいだ水をたたえていたといいます。小さな山崩れはかぞえきれず、幅50間(約90m)を超える大崩れは1800カ所をかぞえ、家は全村の四分の一にあたる600戸が流れたりこわれたりしました。死者は168人、被災者は2600人にのぼり、田畑にいたっては実に70%が消え11の集落は消し飛んで、跡形もなくなりました。

 

小説・北に行く旅人からの抜粋

現在の谷瀬吊り橋

同じ湖で谷を埋められた上野地では、90メートルを越える川幅ができてしまった。満々とせりあがってくる水を見て、村人たちはたまげた。対岸の谷瀬の人々のようすはどうであろう。「おうい」と呼びかけるが、まるでとどかない。大島という男がむかしから家に伝わる弓を持ち出した。「そちらは如何に候や」と書いた紙きれを、矢の根に巻き付けると、岸まで出た。片肌脱ぎになって、那須与一よろしく放った。けれども、矢は岸の近くで水に落ちた。「ああ、われ老いたり」。高根という者が代わった。めでたく濁流をこえて、なおも10メートルを飛んだ。対岸の人たちがあわてて逃げ散った。「やっぱ十津川武士じゃ」みな手をたたいたが、これでは物足りない。谷瀬の者は猟師がいるから鉄砲はあっても弓矢の備えがない。これでは片便りだから、矢のうしろに糸をつけるという。糸さえとどけば細いひもを、その次には綱をつなぐ。そうすれば筏を出しても、万一のときは綱をつかまって帰ってくることができる。

(豪雨は8月18,19日)

救援隊はまず五條からやってきた。26日になって北のはしの長殿に一陣が着くと、つぎの日には高野山経由で米や塩がはいってきた。南のほう三重県からの道は28日に通じて、東十津川の人々は命をつなぐことができた。想像以上の被害の模様が次第にはっきりとしてきた。狭い谷には、ぎっしりと土砂がつまっている。そのため、川は高い所で60m、低くても15mは川底が上がってしまった。

もともと谷がけわしい村だ。谷の向こうの家に「これからそっちに出かけるぞ」と声をかけて出発しても、向こうの家の敷居をまたぐころには餅がつけていると言われた。その深い谷底が大量の土砂に埋まったのだ。

上野地では道から本流は見えなかったのに、広い川が目の前にせりあがってきた。そのかわりに、見上げるほど上にあったもう一つの湯が、ちょうど川岸近くになっていた。助かった家いえは折立(おりたち)や平谷などの下流の大きな部落に多い。谷の狭いところでは全滅にひとしかった。山がずり落ちてできた新湖が逆流して二重にいためつけられたからだ。十日が過ぎても復旧など思いもおよばない。

(これからどうする)

十津川筋はどこもかしこもあまりのひどさだから、なにから手をつけていいかわからない。大阪の軍隊から工兵隊が応援にやってきた。新聞記者や医者などの見慣れない顔も、谷にはいってきた。村の出身者も、東京や大阪から帰郷してくる。十津川郷はにわかにあわただしかった。

これからどうするかという話がふきだしたのは、むしろそういう帰省者からだ。3千人近い人たちの生活の根拠が根こそぎ奪い去られている。掘っ建て小屋を建てるにしても、空き地さえないではないか。たとえ小屋を建てたとしても、どうして生きていけよう。山畑のあったところは風が吹いている。

ハワイへ移住しようという話が出た。それなら、東京の政府には力になってくれる人がいるはずだ。だが、異国はいやだという声が強かった。いまさら英語を習えるものでもない。北海道はどうだろうという声もある。ところが、向こうはひどい寒さだというから、暖かいところに慣れた十津川人はとても住めそうもない。福島県に阿武隈川という川がある。その奥地に、荒れてはいるが平地があるらしい。そこがいちばんましかもいれん。

「おもろうない。誰一人先祖からの土地を守っていきのびようとは考えないのか。それがおもろうない」「守る土地が消え失せてもか」「墓がある」「墓だけでは生きていけんが」

(9月になった)

北海道移住の話がにわかに具体的になってきた。北海道長官永山武四郎という人が奈良県の知事あてに、よい土地を提供するといってきたというのだ。

移住勧告書「長殿(ながとの)、宇宮原(うぐわら)、上野地(うえのじ)、林、高津(たかうつ)、野尻(のじり)、寒ノ川(かんのがわ)、那知合、谷垣内(たにがいと)、山手(やまて)、桑畑(くわはた)、大谷(おおたに)、上湯川の地(かみゆのかわ)、復生をとげるの地にあらず」

みんなは顔を見合わせた。つまりこの谷筋では生きていけないということなのだ。「この谷は死んだということや。祖先の墓を守るのもよいが、新天地を求めて出陣しようではないか。北海道は沃野千里、政府の補助も出るらしい」