庚午事変(稲田騒動) 北の零年
2005年公開映画のモデル  吉永小百合主演

写真は静内の「稲田家上陸の地」に建っている碑です。

淡路島(洲本)⇒日高(静内)

江戸時代の淡路島は徳島藩の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていました。明治政府は明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もその身分に応じて減らすことにしました。稲田家当主は士族の千石給与となりましたが、稲田家臣は卒族にされ僅かの手当てとなり生活に対する不安は大きく、また稲田家との主従関係が断ち切られました。 

稲田家臣は士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこします。この稲田側の動きは蜂須賀本藩家臣の激しい怒りをかい、明治3年5月13日の早朝、蜂須賀家臣らが洲本下屋敷町の稲田邦植の別邸などを襲い、無抵抗の者を殺傷し火を放ちました。
この年は庚午のとしであったところから庚午事変ともよばれています。

この事件に対する政府の処置は厳しく、首謀者10名が断罪(のちに切腹)、27名が流罪、その他禁固、謹慎など多数を数えました。

一方稲田家側は稲田邦植以下全員が北海道開拓で静内を命ぜられます。

移住は1871(明治4)年から始まり、第一陣546人は同年5月、静内に上陸。
第二陣は8月に出発しますが、和歌山沖で岩に乗り上げ、83人の水死者を出す惨事に見舞われます。
稲田家が落ち着いた場所は、静内川の上流にあるアイヌのシャチ跡でした。冬を超える前に家財道具一式が燃えるなど、幾多の苦境が家臣団を襲います。
しかし、開拓を諦めることなく現在の静内を拓いていきました。