北海道へ志願して渡った士族たち 8
石狩国夕張郡阿野呂川左岸(現栗山町)
明治21年 角田藩士・泉麟太郎
旧角田藩⇒室蘭郡⇒夕張郡
泉麟太郎は、実兄の添田竜吉を助けて明治21年まで室蘭市の基礎を築き、その後室蘭の土地が狭いため、同年5月、「夕張開墾起業組合」を結成して7戸24人が夕張郡野呂川左岸に再入植し現在の栗山町の前身を築きました。
兄が室蘭の開祖、弟が栗山の開祖となります。
開拓の2年後、明治23年に角田村が設置され、さらに、その翌年には、日本の稲作の第一人者であった北海道庁の酒匂(さこう)財務部長の指導援助により、稲の試作にも成功し、北海道で初めての水利土功組合を組織し、夕張川から水を引いて稲作を振興し、角田村の基礎をつくりました。
角田村が「栗山町」と改称されるのは昭和24年。
今でも、国道234号(由仁国道)から夕張に入る道道3号の交差点近くでは角田という地名が残っています。
泉麟太郎が夕張川に巨大な灌漑工事を思いついたのは、頭のどこかに角田市と阿武隈川の関係を描いていたのではないかと推察されています。
開拓使によってご法度とされていたイネ作り。しかし本州からの開拓移民にとって、米への執着は一片の禁止令で絶ち切れるものではありませんでした。
明治26年、水田を試作して成功。その後28年に水利組合を結成し、起業資金の借り入れのため日本勧業銀行へお百度を踏む。そのころでも北海道における稲作は危険視されており、政府は勧業銀行に対して厳しい貸し付け制限を加えていました。
しかし、明治29年代に入ると、各地から米作の成功がつぎつぎと伝えられ、この地を水田地帯に生まれかわらせようと発意したのが泉麟太郎でした。
麟太郎は明治31年4万円の借り入れに成功。この成功の背景には、自力で施工した夕張潅漑によって、すでに2万石の産米をあげている事実がありました。明治32年にはそのことが発端となり、北海道拓殖銀行法、さらには北海道土功組合法が制定されます。
この資金によってスタートした潅漑工事は明治33年に完成。造田面積およそ900ヘクタール。泉麟太郎が強行した事業はみごと成功したばかりか、水田耕作に意欲をみせている開拓者を力づけ「造田ブーム」を巻き起こります。
明治33年の角田村の戸口が1,200戸、5,000人を突破。
この余勢をかって長沼、幌向などにも角田藩の人脈が流れこんでいきます。
親子2代衆議院議員として活躍する横路家も、まぎれもない角田藩の末裔です。
今の栗山町
泉記念館
泉記念館は1898年に泉麟太郎(いずみりんたろう)が建築した木造平屋建ての住宅で、栗山町有形文化財に指定され、内部には角田藩や泉麟太郎に関する資料などが展示されています。
開拓記念館
開拓記念館では、開拓時から栗山町へと発展した歩みをジオラマや生活用具、農具などを展示し後世に語り継いでいます。
○姉妹都市 宮城県角田市