北海道へ志願して渡った士族たち 7
胆振国室蘭郡チマイベツ(現室蘭市)
室蘭といえば、今ではJRの東室蘭駅から支線で入った室蘭駅周辺の地域を指しますが、これは明治初年に港ができ「新室蘭」と言われるようになってからのことです。幕末の地図などで「モロラン」という地名は、現在の室蘭から白鳥大橋を渡った対岸にある、JRの崎守(さきもり)駅の辺りになります。
胆振国室蘭郡チマイベツとは、崎守よりも北になり、チマイベツ川に沿って海から現在の高速道路の室蘭ICあたりまでになります。
明治以後も、長年にわたってこの地域が「室蘭村」で、1890(明治23)年に、「元室蘭村」と改称された経緯があります。
明治3年 仙台藩士・石川源太邦光
旧角田藩主の石川邦光(角田2万1300石)は、伊具・刈田など仙南5郡は南部氏の領地となり白石藩が置かれました。
旧角田藩主の石川邦光が北海道の支配を命じられたのは胆振国室蘭郡チマイベツです。
明治3年3月16日、仙台の角田村をあとにし藩主石川邦光の重臣添田竜吉と添田の弟・泉麟太郎が率いる第一陣の移住者(44戸51人)が室蘭に着いたのは4月6日でした。(石川邦光は開拓には来ませんでした)
入植した場所は、チマイベツ(現在の石川町・香川町)に27戸、本輪西・幌萌・知利別に17戸で、一行は、とりあえず雨露をしのぐ程度の掘っ立て小屋を組みます。
しかし、石川邦光の父が病気になり、家臣1,300戸の自費移住は財政上無理、また帰農を願い出たものが多く頓挫しこれにより邦光は1ヶ月の謹慎。
この地は伊達邦成と片倉邦憲に分割されました。
明治5年9月に開拓使の通達で士族から平民に落とされてしまいます。
平民に落とされ、開拓使からの移住に係る補助や給与、開拓費の貸付なども切られてしまいました。
生活困窮により、弟・泉麟太郎は若い人10人を連れて中山峠、本願寺道路の土木工事に行ってお金を稼ぐことや、兄の添田龍吉と同地の輪西(わにし)で塩や氷、そして網をつくるなどして、移住者たちの生活を支えました。
明治6年、13歳の旧藩主邦光の弟、石川光親が3戸の同志を伴って移住、さらに明治14年には、61戸211人が移住してきました。
事業としては、石川町や本輪西町で養蚕をしたり、現在の本輪西駅前付近で鋳物場を建て、日用家庭器具の製造も行っていました。
最も成功した事業は、輪西氷と呼ばれたもので、コィカクシ川から水を引き、貯水場を作り、夏はコイ・ヤマメ・ウナギを養殖し、12月からは水を凍結させ、大阪方面に出荷しましたが、良質であるため暑い関西では大変重宝がられ好評を博しました。