明治2年 <北海道分領支配制度>
北海道全土にわたって開拓を推し進めるには、開拓使だけでは到底できるものではありませんでした。
新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることにしました。
太政官は明治2年7月22日に分領を出願制としますが、藩で出願したのは15藩。強制的に命じられたのは9藩でした。
分領支配の条件は藩にとって財政負担が大きく政府の介入がありました。
1.支配地の指定、変更などに、介入。
2.開発経費などは藩の負担。
3.司法権の政府掌握。
最初の出願は、明治2年8月7日、水戸藩知事徳川昭武。
天塩国苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国利尻郡5郡の支配を命じられ以後、順次分領支配が展開します。
開拓使の直轄は20郡、その他各藩と東京府・兵部省・増上寺・仏光寺などに分領しました。
そうして、出願してきた士族団体がありました。
伊達邦成・伊達邦直・片倉那憲・伊達広高・石川邦光・亘理胤元・五島銑之丞・稲田邦植
の8士族。大半が戊辰戦争の「敗残兵」でした。
士族としては、新たな領土支配と家来の生活を賭けた希望の出願でした。
しかし、自費であることと原始林の開拓は簡単なものではありません。
最後まで支配地を維持したのは13藩2華族6士族2寺院。
このため、明治4年廃藩置県の直後にこの制度を廃止し松前藩(館県)を除いて全土を直轄となります。
士族団体の領土支配の夢はたった2年で崩れてしまいます。