北海道人のルーツ 16 役所は出来たが

写真は松浦武四郎が11国とした地図の区分けです。千島樺太は抜けています。

長いこと蝦夷地と呼ばれてきた北海道に全国からの関心がそそがれました。
新しく出発する国のために役立つように開拓しようというわけです。
国の為に働こうとする人、新しい生活をこの地で拓こうとする人、何かうまい金儲けはないかと考える人、それぞれの思いはまちまちです。

徳川幕府を倒した新政府はその舵取りをしなければなりません。
そのために開拓使という役所を作りました。

しかし、役所は作りましたが旧松前藩時代の蝦夷地をどのように開拓していくかの構想はありませんでした。
安政以来の難題で旧幕府がロシアと折衝をつづけ、その南下の阻止策は解決していません。これは緊急課題でした。
奥羽越諸藩連合の極度の疲弊は東北だけの問題ではありません。

できたばかりの新政府には権力も財力もなく、そこで考えたのが全国の藩や士族に土地を割り渡し、開拓をさせる方針でした。

仙台藩岩出山領主伊達邦直
家老吾妻謙(あづまけん・又はあがつまけん)

当別町を開拓した伊達一門の映画

1869年(明治2年)9月、岩出山領主伊達邦直は仙台藩の中で先陣を切って北海道開拓を発表しました。
家老であった吾妻謙を開拓主事に任命、北海道開拓志願書を新政府に提出したのです。
 
明治維新の際に奥羽越列藩同盟に参加した岩出山は官軍と交戦。山形で勝ち戦功を挙げたが、味方の多くは官軍に下ったため敗れました。

戦後、それまで14000石あった禄高を65石に減封された上、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪されます。
侍ではなくなった家臣たちは帰農を命ぜられたが、邦直は彼らが路頭に迷うことを憂い、私財を処分して得た資金で、新政府の推し進めていた北海道開拓を志願します。
願は許され、1869年(明治2年)に石狩国空知郡の支配を命ぜられました。

しかし、この空知郡(現在の奈井江)は内陸部に位置し、物資の輸送等が困難であったことから、海岸近くへの移転を申し入れます。
石狩浜に決まりますが、ここは砂浜のため作物は実らないため、再度吾妻謙が太政官に申し入れたところ、今度は不届きを理由に吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末でした。