松前家の手長皿-松前町ー
昔、松前の殿様に、資広という方がいました。資広は7代目の殿様でした。この殿様の奥方は、それはそれは美しい方でした。なんでも、京都の公家で八条中納言さまのお姫様だということでした。
ある、月の明るい晩のことでした。雲の間からさす月の光が、あまり美しいので、奥方は縁に出て、しみじみと月を眺めていました。
奥方は、ふと、江戸へ出かけて行った夫のことを思い出しました。資広は、将軍家のご機嫌うかがいに江戸へ出向いて、もう、かれこれひと月以上も留守だったのです。
「お殿様は、今頃江戸の御屋敷で、何をなされていらっしゃるかしら。月はひとつというけれど、江戸の御屋敷からも、この同じ月が見られるのかしら」
奥方は、江戸へ出向いている資広のことを、あれこれ思い出しているうちに、なつかしさが込み上げてきて、何かに誘われるように、ふらふらっと庭に下り立ちました。
庭は、一面、ハギの花ざかりでした。重そうに頭を垂れているハギの花は、月の光に濡れたように、色鮮やかに、しかも、風もないのに、なにか、おいでおいでとまねいているように思われました。
奥方は、誘われるままにハギの道を進みました。そして、裏門を通り抜けてお城の外の池の縁まできてしまいました。池の中には、満月のようなお月様が沈んでいるように、きらきら光っていました。
奥方は、水面に映るこんな美しい月影を見るのは、はじめてでした。手ですくいとってみたいと思いました。
その時、その水面に何かが映ったように思って、頭を上げて池の向こう岸を見た時、奥方は思わずはっとしました。
そこには、京都の御屋敷にいたような、色白の美しい若者が、にっこりと笑みを浮かべながら、しきりに奥方を手招きしているのです。
奥方は、懐かしさと嬉しさでいっぱいになり、急ぎ足で池の向こうに行こうとしました。
「奥方さま、あぶのうございます!」
その時、息せききって走ってきた奥女中のゆきえに、奥方は、しっかりと袂を押さえられました。
「奥方さま! どうあそばれたのでございますか。この池には、もののけが棲んでいるといわれて、お城のみんなにも恐れられていることは、奥方さまもご存じのはずでございましょうに、今晩に限って、また、本当に、どうなされたのでございますか。さあさあ、いっときも早く、お部屋に戻らねばなりませぬ」
ゆきえは、奥方の無事な姿を見て、ほっとしました。
しかし、奥方は、美しい若者の、あの微笑みと手招きが忘れられず、池の向こうの若者に、心ひそかに、こう言い残したのです。
「もし、おまえが、怪しいもののけでないならば、三日後の晩のこの同じ時刻に、必ず証拠の品を持って、裏門のハギの花の下で待て。家来に取り立てて進ぜよう。くれぐれも、もののけでない証拠の品を忘れぬように・・」
ゆきえは、奥方を部屋にお連れして、いろいろと、その訳を聞こうとしましたが、奥方は、何もいいません。ただ、
「あんまり月が綺麗だったから・・・・」
というだけでした。
よく日から、ゆきえは、奥方の側をいっときも離れないように、注意しました。家来の者にもいいつけて、裏門の警備も堅くし、池の見まわりも怠りませんでした。殿様の留守中に、奥方に何かがあっては大変なことですから。
一日たち、二日たち、いよいよ、三日めの晩のことです。奥方には予感がありました。あの若者は必ず来る、という予感です。
しかし、もののけについて、くどいほどいろいろとゆきえに聞かされた奥方には、ほんの少しばかり、心の中に不安な気持ちが起こっていたのです。
「来るかしら。来ないかしら。ほんとに、あの若者はもののけかしら。そんなはずはない。証拠の品さえ持ってくれはいいのだから・・・・。でも、もしもののりなら、どうしよう」
奥方は、胸の懐剣を手で押さえました。奥方の落ち着かぬ様子は、やきえには良く分かります。
「何かある。何かあるに違いない」
ゆきえは、奥方から目を離しません。
奥方は、庭のハギを眺めながら、ときどき、ほうっと、ため息をもらしました。奥方には、ハギの道を歩いてくる。美しくりりしい若者の姿が、もう、すぐにも見えるような気がするのです。
月は、雲一つない空の真っただ中で、こうこうと輝いています。しかし、いっこうに若者は現れません。
奥方は、ふと、お手洗いに行きたくなりました。そして、用を済ませて出てきますと、急に辺りが暗くなりました。
(おや?)
と思い、見上げた空は、真っ黒い雲に覆われていました。
急いで手洗い鉢の所に行こうとした目の前に、垣根の中から、白い手がにゅうっと伸びて、その手の先には、白い皿のような物が捧げられていました。
奥方は、一瞬、自分の体が氷の柱にでもなったかのように思われました。そして、とっさにその皿を受け取り、同時に、懐の懐剣で、その手をプスリと突き刺したのです。
「ギャーッ」
と、何とも言えない、物凄い悲鳴が聞こえました。と同時に、大勢の家来たちが、ちょうちんを持って庭に駆けつけてきました。
月は、まだ雲の中でした。
それは、手洗い鉢の側でお待ちしていたゆきえとは、ほんの目と鼻の先の出来事でした。そして、気がつくと奥方は、ちゃんと白いお皿を持っているのです。奥方もゆきえも、びっくりしていました。
部屋に戻って、よくよくお皿を見ましたが、それは、少し厚でで、肌のすべすべした、象牙色の丸いお皿でした。紫とも紺ともつかぬ不思議な色を使って、花とも葉とも思われる模様が、描かれているのです。
それは、まるで南蛮船にでも乗って、どこか遠い国から運ばれてきたお皿のようでもありました。
奥方とゆきえは、ただもう、ぼんやりと白いお皿を眺めていました。
「申し上げます」
と、庭先に、家来たちがやってきました。家来たちの話を聞くと、奥方に刺された腕の血の跡を辿って、ずうっとついて行くと、あの裏門の池のところで、血の跡は、消えうせていたというのです。
この後、池は、誰云うとなく「手長池」と呼ばれるようになりました。そして、この皿もまた、「手長皿」と呼ばれるようになりました。
現在、この池は干上がってしまって草が生えています。
お皿の方は、奥方が亡くなられてから、松前家の菩提寺である法憧寺に秘蔵されていたのですが、現在は、阿吽寺に納められ、松前家の家宝と一つとして、阿吽寺の奥殿に陳列されています。