松前家の手長皿-松前町ー

昔、松前の殿様に、資広という方がいました。資広すけひろは7代目の殿様でした。この殿様の奥方は、それはそれは美しい方でした。なんでも、京都の公家で八条中納言さまのお姫様だということでした。

蝦夷の時代53 (松前藩主7代目資広)

ある、月の明るい晩のことでした。雲の間からさす月の光が、あまり美しいので、奥方は縁に出て、しみじみと月を眺めていました。
奥方は、ふと、江戸へ出かけて行った夫のことを思い出しました。資広は、将軍家のご機嫌うかがいに江戸へ出向いて、もう、かれこれひと月以上も留守だったのです。

「お殿様は、今頃江戸の御屋敷で、何をなされていらっしゃるかしら。月はひとつというけれど、江戸の御屋敷からも、この同じ月が見られるのかしら」

奥方は、江戸へ出向いている資広のことを、あれこれ思い出しているうちに、なつかしさが込み上げてきて、何かに誘われるように、ふらふらっと庭に下り立ちました。
庭は、一面、ハギの花ざかりでした。重そうに頭を垂れているハギの花は、月の光に濡れたように、色鮮やかに、しかも、風もないのに、なにか、おいでおいでとまねいているように思われました。

奥方は、誘われるままにハギの道を進みました。そして、裏門を通り抜けてお城の外の池の縁まできてしまいました。池の中には、満月のようなお月様が沈んでいるように、きらきら光っていました。

奥方は、水面に映るこんな美しい月影を見るのは、はじめてでした。手ですくいとってみたいと思いました。
その時、その水面に何かが映ったように思って、頭を上げて池の向こう岸を見た時、奥方は思わずはっとしました。
そこには、京都の御屋敷にいたような、色白の美しい若者が、にっこりと笑みを浮かべながら、しきりに奥方を手招きしているのです。
奥方は、懐かしさと嬉しさでいっぱいになり、急ぎ足で池の向こうに行こうとしました。

「奥方さま、あぶのうございます!」

その時、息せききって走ってきた奥女中のゆきえに、奥方は、しっかりと袂を押さえられました。

「奥方さま! どうあそばれたのでございますか。この池には、もののけが棲んでいるといわれて、お城のみんなにも恐れられていることは、奥方さまもご存じのはずでございましょうに、今晩に限って、また、本当に、どうなされたのでございますか。さあさあ、いっときも早く、お部屋に戻らねばなりませぬ」

ゆきえは、奥方の無事な姿を見て、ほっとしました。

しかし、奥方は、美しい若者の、あの微笑みと手招きが忘れられず、池の向こうの若者に、心ひそかに、こう言い残したのです。

「もし、おまえが、怪しいもののけでないならば、三日後の晩のこの同じ時刻に、必ず証拠の品を持って、裏門のハギの花の下で待て。家来に取り立てて進ぜよう。くれぐれも、もののけでない証拠の品を忘れぬように・・」

ゆきえは、奥方を部屋にお連れして、いろいろと、その訳を聞こうとしましたが、奥方は、何もいいません。ただ、

「あんまり月が綺麗だったから・・・・」

というだけでした。

よく日から、ゆきえは、奥方の側をいっときも離れないように、注意しました。家来の者にもいいつけて、裏門の警備も堅くし、池の見まわりも怠りませんでした。殿様の留守中に、奥方に何かがあっては大変なことですから。
一日たち、二日たち、いよいよ、三日めの晩のことです。奥方には予感がありました。あの若者は必ず来る、という予感です。
しかし、もののけについて、くどいほどいろいろとゆきえに聞かされた奥方には、ほんの少しばかり、心の中に不安な気持ちが起こっていたのです。

「来るかしら。来ないかしら。ほんとに、あの若者はもののけかしら。そんなはずはない。証拠の品さえ持ってくれはいいのだから・・・・。でも、もしもののりなら、どうしよう」

奥方は、胸の懐剣を手で押さえました。奥方の落ち着かぬ様子は、やきえには良く分かります。

「何かある。何かあるに違いない」

ゆきえは、奥方から目を離しません。
奥方は、庭のハギを眺めながら、ときどき、ほうっと、ため息をもらしました。奥方には、ハギの道を歩いてくる。美しくりりしい若者の姿が、もう、すぐにも見えるような気がするのです。
月は、雲一つない空の真っただ中で、こうこうと輝いています。しかし、いっこうに若者は現れません。
奥方は、ふと、お手洗いに行きたくなりました。そして、用を済ませて出てきますと、急に辺りが暗くなりました。

(おや?)

と思い、見上げた空は、真っ黒い雲に覆われていました。
急いで手洗い鉢の所に行こうとした目の前に、垣根の中から、白い手がにゅうっと伸びて、その手の先には、白い皿のような物が捧げられていました。
奥方は、一瞬、自分の体が氷の柱にでもなったかのように思われました。そして、とっさにその皿を受け取り、同時に、懐の懐剣で、その手をプスリと突き刺したのです。

「ギャーッ」

と、何とも言えない、物凄い悲鳴が聞こえました。と同時に、大勢の家来たちが、ちょうちんを持って庭に駆けつけてきました。
月は、まだ雲の中でした。
それは、手洗い鉢の側でお待ちしていたゆきえとは、ほんの目と鼻の先の出来事でした。そして、気がつくと奥方は、ちゃんと白いお皿を持っているのです。奥方もゆきえも、びっくりしていました。
部屋に戻って、よくよくお皿を見ましたが、それは、少し厚でで、肌のすべすべした、象牙色の丸いお皿でした。紫とも紺ともつかぬ不思議な色を使って、花とも葉とも思われる模様が、描かれているのです。
それは、まるで南蛮船にでも乗って、どこか遠い国から運ばれてきたお皿のようでもありました。
奥方とゆきえは、ただもう、ぼんやりと白いお皿を眺めていました。

「申し上げます」

と、庭先に、家来たちがやってきました。家来たちの話を聞くと、奥方に刺された腕の血の跡を辿って、ずうっとついて行くと、あの裏門の池のところで、血の跡は、消えうせていたというのです。

この後、池は、誰云うとなく「手長池」と呼ばれるようになりました。そして、この皿もまた、「手長皿」と呼ばれるようになりました。

松前町にある法幢寺

現在、この池は干上がってしまって草が生えています。

お皿の方は、奥方が亡くなられてから、松前家の菩提寺である法憧寺ほうどうじに秘蔵されていたのですが、現在は、阿吽寺あうんじに納められ、松前家の家宝と一つとして、阿吽寺の奥殿に陳列されています。