旭川のはじまりはここから
札幌から国道12号で旭川大橋(忠別川)を渡り、一本目の交差点を右折すると一条通に入ります。この一角を曙地区といいます。
明治23年、永山屯田兵屋建築のため、流送してくる原木をここで引き揚げました。木材請負小屋が建ち、各地から作業員、その家族、商人と集まり、製材所もできます。一つの街の形態となるのにそれほどの年月は要しませんでした。
その繁盛ぶりが朝日の昇るような勢いだったところから「曙通り」と呼ぶようになり、地名として残りました。
鉄道が開通となり、市街地が一条2丁目・3丁目界隈と進み7丁目が旭川駅となります。繁華街が移動するにつれ、曙地区は静かな住宅地となり現在は日本赤十字病院が建っています。
曙地区の隣、一条2丁目にあった斉藤内科・小児科医院が平成13年11月末で61年間の幕を下ろしました。斉藤操院長は和寒出身で旭川における女医第一号でした。医療機械の検査で数字に頼る今の時代とは違い、聴診器一本、脈をはかり、お腹を押さえる診察に徹し「女赤ひげ」といわれる町医者でした。89歳で亡くなるまで聴診器を握り続けたといいます。看板を下す時、たまたま側を通りかかった人は手を合わせながら涙を流したと伝えられています。
軍都・旭川の旅めぐり
旭川のシンボルと言えば架橋当時(昭和2年)の姿を残す「旭橋」です。しかし、この橋の上を路面電車が通っていたことを知る人は少なくなりました。
旭川を知るには、この電車通りを地図に書き込むと、「軍都の町旭川」が浮かび上がってきます。
旭川駅前を発車した電車は、現在の平和通り(当時は師団通)をロータリーで左折し、旭橋を通り国道40号を真っすぐ走り1線6号、現在の花咲7丁目が終点でした(約5㎞)。
護国 神社前の交差点を曲がり、大町交番を右折するもう一本の電車は旧師団司令部前が終点。これらの鉄路は昭和31年6月に姿を消します。
昭和4年に第一回慰霊音楽大行進で5キロ間の行進が始まりました。現在も北海道音楽大行進として護国神社までを行進するといいます。旭川の小学校を卒業した人たちは、鼓笛隊として参加した人が多いと思います。
神社のある花咲町1丁目と国道を挟んだ向かい側の自衛隊の敷地内に「北鎮記念館」があり、旧七師団の歴史とともに、かつての軍都旭川を垣間見ることができます。この記念館を見なければ旭川を知ることができません。
井上靖記念館
井上靖は旭川が生誕の地であり、父は旧陸軍第七師団の軍医で、1歳の時に母の郷里静岡県伊豆湯ヶ島に移りました。
隣接する彫刻美術館との共通入場券が購入できるのが特徴です。
旭川市彫刻美術館は旧旭川偕行社を転用したもので第七師団の社交場で、大正天皇や昭和天皇の来旭の際にも利用され国の重要文化財を受けております。
中原悌二郎は、叔父の養子になり5年ほどを旭川で過ごしています。32歳5ヶ月余の短い生涯を閉じるまで25点の作品を製作しました。美術館はその作品の半数を所蔵・展示しています。
旭川の4神社
明治8年から屯田兵制度がスタートしますが当初は士族が対象でした。明治20年を過ぎると士族も落ち着き対象が平民に拡大されます。
明治24年7月、平民屯田兵は永山に400戸、翌年8月に東旭川に400戸が入りました。平民が大半となり農作業が一挙に進みます。不適とされた稲作に一丸となり「米作り上川百万石」のあゆみがはじまります。大分県から入地した広沢徳治郎が当時の生活・開墾などの有様を絵と文で綴った「屯田絵巻」が東旭川の「兵村記念館」に収められています。
旭山動物園が作られた場所は東旭川の西側にある旭山公園の一角です。かつて旭川電気軌道東旭川線が公園まで走っていましたが、昭和47年廃線になり兵村記念館や旭川神社は完全に郊外になってしまいました。
ところが、旭川で最初に作られた神社は旭川神社でも上川神社でもなく永山神社なのです。
屯田兵が最初に入地した場所がJR石北本線永山駅一帯(現在の国道39号)でした。明治天皇が「ここは永山武四郎の名前を付けるとよいだろう」と言われ地名となり、神社も作られたのです。東旭川地区は永山地区の南側になります。
旭川には由緒ある神社として4つあります。永山・旭川の他に護国神社・上川神社ですが、これらに関係した人物が永山武四郎で常磐公園・永山神社に銅像が建てられています。「屯田兵の父」と呼ばれた人です。
銀座通商店街
旭川といえば昭和47年に歩行者天国で有名になった「平和通買物公園」です。
ところが、明治末期に、東旭川や東川の屯田兵が馬そりで買いだめに来ていたと云われる商店があります。大変繁盛し昭和39年に旭川銀座商店街組合が設立され現在に至っております。42年には、現銀ビルの地に「大黒座」(後に「錦座」、「松竹座」、「銀映座」と順次改称)が建ち、賑わいました。
大正7年には、旭川で最も古い市場として「第一市場」が開設され、市民の台所として親しまれてきました。現在もこの市場は営業しており入ってみましたが、営業の店は何カ所もなく空き店舗の壁に「鶴瓶と小栗旬」の写真が掲載されていました。NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で訪れた時のもので、それだけ懐かしい場所だったのでしょう。