海陽亭(旧魁陽亭)

明治初期に開業した料亭で、亭名は創業期の魁陽亭から開陽亭、海陽亭とかわっています。(2019年には閉店していました)

建物は大半が大正期の増築ですが、2階大広間「明石の間」は、明治29年大火し再建されました。明治39年11月、日露戦争による樺太国境画定会議後の大宴会がここで開かれるなど日本史の舞台にも登場し、政財界など多くの著名人が訪れています。

観光客で賑わうメルヘン交差点(オルゴール堂)から、南側の坂道を100mほど上がった左手奥高台に古い建物が見えます。車道もあり上ったところに3台ほどの駐車場有り。いつも営業しているわけではありませんので、予約を入れるほうが安心です。

石原裕次郎が小学校時代の数年、小樽市役所の坂下にあたる稲穂小学校に通っていました。当時、山下汽船の小樽支店長で宴会好きの「ドンチャン」と呼ばれていた父、潔氏を迎えに来ていた2人の息子が慎太郎と裕次郎です。芸能界入りした後も好んで利用しており、後に妻となる北原三枝と行方をくらました時に潜んでいたのが海陽亭でした。

小樽の最盛期、国の政財界人が好んで宿泊していており、軍艦で来た伊藤博文は軍の規則を破り海陽亭で泊まりました。その布団一式なども展示されています。多くの有名人が利用しており、色紙などが展示されているので見応えがあります。

花園銀座商店街

小樽駅から都通りやサンモール一番街などを経由して寿司屋通りを渡った先が「花園銀座商店街」です。旅先で昔ながらの商店街を発見するとワクワクするものです。「花園」の名は、かつて北前船の商売でつながっていた京都から、銀座の名前は東京からついたといわれています。
かつては小樽随一の繁華街で、古くから続いているお店があります。入ってすぐに見えてくる「新倉屋」は、明治28年創業の和菓子店。その名も「花園だんご」が名物。商店街のなかほどには、小樽名物「かま栄」の本店もあります。「かま栄」は、明治38年創業のかまぼこ屋さん。パンで包んで揚げた「パンロール」が人気で、大泉洋が紹介したことでも有名です。
昭和3年創業の小樽初の洋菓子店「米華堂」も、そんなお店の一つです。残念ながら閉店した店では、ケーキ店「館」、レコード・CDの「玉光堂」本社もありました。

「花銀」を上り交差点の左手には「水天宮」の鳥居が見えます。階段を登ってたどり着くと、銅板葺きの荘厳な神社が迎えてくれます。港の景色も一望でき、20年ほど前、三国廉太郎を見かけました。交差点を右に行くと石川啄木が下宿していた家が現役で残っています。

旧小樽区公会堂 旧岡崎家能舞台

小樽市役所の坂道を上がったところに明治・大正の建物が2つあります。

一つは、明治44年皇太子(後の大正天皇)の本道行啓に際しての宿泊所として建てられたもので、この建物は海運商として名を馳せた藤山要吉が私財を投じて建て小樽に寄贈しました。和風の建築様式で、御殿、本館、付属建物からなっており、映画の撮影にも使われています。行啓後、公会堂として活用しますが市民会館建設に伴い、昭和35年に現在地に移築されました。

同じ敷地内に、荒物雑貨商として財をなした岡崎謙が、大正15年、入船町の自宅中庭に建てた能舞台があります。昭和36年、公会堂隣接の現在地に移されました。檜の舞台をはじめ、要所には佐渡産神代杉(じんだいすぎ)が用いられ、格式にのっとった能舞台で東北以北唯一のものといわれています。 鏡板の老松、唐獅子、若竹は狩野派17代秉信(もちのぶ)が描いたもの。

カトリック小樽教会 富岡聖堂

小樽商科大学に向かう地獄坂から少し奥まったところに、「カトリック小樽教会 富岡聖堂」があります。赤いとんがり屋根と八角堂の鐘楼が特徴で、中世ロマネスクとゴシック様式が混在し、小樽市の歴史的建造物にも指定されています。
礼拝堂は2階にあり、いつでもだれでも自由に参拝できます。教会としてはめずらしく、礼拝堂内での写真撮影も自由です。

大きな見どころは、窓に輝くたくさんのステンドグラスです。
礼拝堂の大窓にあるステンドグラスは、建築当初からの古いもので、シンプルな幾何学模様。漆喰の白壁に、やわらかな光が差し込みます。いろいろな種類のガラスが使われており、細かい凸凹のあるガラスは、もう国内では作られていないといいます。階段踊り場にあるツタのステンドグラスは、教会信者の作品で、かつてここが「ツタのからまる教会」と呼ばれていたころを懐かしんでデザインしたそうです。地域の人がおればいろいろと室内を紹介してくれます。