北海道ゆかりの人たち

宣教師ニコライ(イワン・カサートキン)
1836(天保7)~1912(明治45)
ハリスト正教会3代目司教

1861年(文久元年)、キリシタン禁制下の箱館に着任。後に東京の神田駿河台にニコライ堂を建て、聖ニコライ大主教と呼ばれる宣教師。

「誰か逃げ込んでおらんか。隠すとためにならんぞ!」「いいえ、誰も来ておりません」小銃を構えた新政府軍の男は2m近い長身のニコライを忌々しげに見上げ、通りの向こうに出ていきました。教会のベンチの裏側から傷を負った若者が這い出てきます。ニコライは口に人差し指を当て、身振りで教会の奥へと招きます。「ありがとうございます」深手を負った若者の傷の手当を始めました。
五島英吉(後の函館五島軒シェフ)と名乗る若者は、残党狩りに追われ、命からがら逃げ込んだのでした。33歳のニコライは、日本に渡って8年目の春を、この戦禍の中で迎えました。

1836年(天保7年・竜馬海援隊隊長の時)、モスクワに近いベリョーザ村で教会司祭の子として生まれます。当時ロシアで4つしかない神学大学ペテルブルグアカデミに官費生として入学。エリートコースの聖職者として安定した地位が約束されていました。しかし、24歳の彼には「日本に行ってみたい」という夢があったのです。それは「日本幽囚記」という本との出会いでした。

彼が生まれる25年前、日本でロシア艦船が幕府に捕らえられるという事件が起こります。ゴローニン少佐と、その一行でした。幕府は一行を根室から護送先の松前まで800キロの道のりを歩かせました。髪や髭は伸び放題、衣服は裂け異臭が漂い、その姿は見るも無残なものでした。しかし、行く先々で日本の女性たちは一行の世話をし、中には同情のあまり涙を流す女性もおりました。二年半の抑留ののち、高田屋嘉兵衛と交換の形でロシアへ帰国。その後、「日本幽囚記」で優しい純朴な日本人女性について書きました。

タイミングよく函館領事館付き主任司祭の募集がありました。ロシア領事は、家族や使用人の他に司祭を伴っており、ニコライは応募し司祭として函館に向けて旅立ちます。1861年、25歳の時でした。

ペテルブルグからシベリア大陸横断、昼も夜もなく馬車に揺られ続けて日本に向かいました。

幕末の箱館は、日米和親条約で国際港として活気に充ちていました。ニコライの仕事は箱館に駐留するロシア人のために宗教行事を授けることです。キリスト教は幕府によって禁じられており日本人には伝道はできませんでした。「いつか日本人にも伝えたい」そのために日本語を学ぶことから始めました。
しかし、6か国語を使いこなすニコライでも、日本の言葉は中々覚えられません。日本語を学ぶのではなく日本の心を学ぼうと町にでます。塾の門もためらうことなく叩きました。まだ開国まもない箱館の人たちから怖がれます。彼の日本を理解するための勉強は徹底したもので、元大館藩軍医の木村謙斉から日本語、日本史、東洋の宗教、美術などを7年間学び、学僧からは仏教を学びます。後に同志社を創設する新島襄からは日本語と古事記を教わり、新島には英語と世界情勢を教えました。そうして、日本の古典書などもスラスラと読み下せるようになり、日本語を話す外国人として箱館の人たちも次第に受け入れるようになりました。

1865年.箱館に来て4年目のことです。「キリシタンの邪教を広めるのは貴様か!返答次第では叩き切る」と殴り込んできた人物がおりました。箱館の神明社の宮司沢辺でした。国民が一つにならなければならない大事な時に、外国の宗教で人の心を乱そうとするとは何事かと押しかけてきたのです。

「よろしい、斬りなさい。しかし、邪教かどうかわかりますか?それが分かってから斬りなさい」

まったく怯むことのないニコライに、沢辺も刀を下し「ならば、俺が見極めてやる」。それから一年近くも通い、この宗教が国民の心を一つにするために役立つと考えるようになりました。

沢辺琢磨(さわべたくま)は坂本龍馬の従兄弟。

土佐藩の長男として生まれ、江戸に出て竜馬と共に剣術に励み、鏡心明智流の師範代を務めるまでになります。ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に、拾った金時計を友人と共謀し時計屋に売ってしまい、それが不法なものであることが発覚。窮地に追い込まれ、訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出。新潟で前島密に箱館に行くことを勧められます。箱館では剣術の腕が功をなし道場を開きます。そんな中で知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて婿養子となりました。

沢辺琢磨は慶応4年(1868年)、日本人最初の司祭となる洗礼を受け、これが函館教会、そして日本正教会の誕生となります。神社の宮司の職を棄て、ロシア正教の信者となった沢辺はその後,終生ニコライを助けていきます。新島襄が米国に密航するに際しては手助けをしています。

函館に坂本龍馬記念館がありますが、館内で一部沢辺のことが紹介されています。

ニコライは 36歳の時(明治5年)、本国ロシアから日本宣教団長に任命され日本全土に伝道すべく、東京に旅立つことになりました。東京での伝道を始め明治24年お茶の水にニコライ聖堂を完成させ、日本人への布教を確実に果たしていきます。

明治37年(68歳)、思わぬ出来事が襲います。日露戦争の勃発でした。教会を攻撃してくる日本人も現れ、神父を助けようとした日本人信徒までが襲撃される有様。ニコライは、身の危険があるので本国に戻るよう指示がありましたが、教会を棄ててロシアに戻るわけにはいかないと信者に宣言しました。

奇しくも2月8日の開戦(旅順口攻撃)の前日でした。日本人の信徒たちにとって、これほどの励ましはありませんでした。戦争が終わると、今度は日本の捕虜になったロシア兵8万人に救いの手を差し伸べる仕事でした。

明治45年、生涯を日本の伝道に捧げたニコライは、神田駿河台の正教会で逝去76歳でした。

毎週土曜の午後5時、日曜の午前10時と12時に函館ハリスト正教会の鐘の音は鳴り響きます。