つきさっぷ郷土資料館(札幌市豊平区)

札幌の月寒地区に郷土資料館があります。昭和16年に建てられた赤レンガの旧陸軍北部軍司令官官邸が資料館になっています。戦後は占領軍に接収され、その後昭和25年から58年までは、北海道大学の月寒学生寮として使用していました。昭和60年に「つきさっぷ郷土資料館」として地元のボランティアの人たちの運営で開館しました。

月寒(つきさっぷ)が「つきさむ」となったのは昭和19年のことで今でも「つきさっぷ」と呼ぶ人もおります。

月寒地区は、明治29年に大日本帝国陸軍の歩兵第25連隊が創設された軍の街です。旭川に第七師団が設立されると多くの兵士は移籍しましたが、25連隊の兵営が置かれ北部指令室があったので、終戦までここから多くの将兵が満州、サハリン、千島へ出兵していきました。

資料室には、当時の生活用品だけでなく旧陸軍の資料が数多く展示されています。

北海道北部を占領せよ!

昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。

この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。

しかし、「終戦の日」の2日後、8月17日の深夜、日本の領土で戦いが始まったことを知る人は少ないように思います。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。北方領土問題へとつながる出来事でもあります。

かく言う私も、占守島の戦いについて「どのような戦いだったか」を知ったのは「つきさっぷ郷土資料館」がきっかけでした。

資料館に北海道地図がありました。日本海の留萌市から太平洋の釧路市までを線引きされた見たこともない地図です。

8月15日の玉音放送後、第91師団の指揮下にあった占守島の将兵たちは、酒を酌み交わし、懐かしい故郷に帰り、家族に再会できることを心待ちにしていたといいます。日本軍の中核、精鋭として知られた戦車第11連隊でした。

ソ連軍は突然国境の占守島を攻撃してきました。受けて立つ日本軍、彼らは「十一」という漢数字と「士」という文字の連想から「士魂部隊」と呼ばれました。とはいえ、終戦の報せと武装解除命令で、ガソリンも半分ほどは地中に埋めてしまい、車輌も長時間の暖機運転が必要で、出撃までに時間を要する状況でした。

前日には「戦車を海に捨てようか」と話していたような状況ですから、無理もありません。それでも、兵士たちは寸刻を争う中、懸命に出撃準備を進めました。そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、ソ連軍を次々と撃破。「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、戦局を逆転させるのです。

この戦闘に勝ちましたが負けていればアメリカの介入があったにせよ、留萌から釧路迄の線引きされた北半分を占領されていたのです。

「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」と綴られていました。

占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。

昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000人の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。しかし、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵条約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」にしたのです。

その発端は、昭和20年2月4日から11日にかけて、ソ連のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で行われた「ヤルタ密約」にまで遡ります。

アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。

しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。

「スターリンは終戦近し」とみるや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。

結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれません。

なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。

三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)

留萌郡小平町鬼鹿海岸には、国指定重要文化財「旧花田番屋」と併設し「道の駅おびら鰊番屋」更に国道232を挟んで「にしん文化歴史公園」があり賑わっています。この一角に「三船殉難事件」の碑が立っているのですが立ち止まる人は少ないようです。
三船殉難事件とは、昭和20年8月22日、留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没し1,708名以上が犠牲となった事件のことです。

日本政府はポツダム宣言を受諾し、民間人を樺太から引き上げさせました。日本は不可侵条約を締結しているソ連に終戦交渉の仲介を何度も打診していましたが、スターリンはそれを逆手にして8月9日の参戦と、8月15日以降の侵攻を続けてきたのです。満州や朝鮮、千島それに樺太に!
留萌沖の三船の攻撃を、いまだにソ連(現ロシア政府)は事実を認めていません。ソ連以外に戦闘行為をしていた国はなく、ソ連以外に潜水艦を保持している国はほかにありません。魚雷を放ち浮上した潜水艦に白旗をあげたが、潜水艦は攻撃を止めませんでした。2船が沈没し、留萌の浜に無数の死体が流れ着きました。留萌の漁民たちは攻撃の危険を顧みず、漁船を出し救助活動を行いました。

千島列島の占拠と、北海道北半分の割譲をヤルタ会談で要求していたスターリンにしてみれば、三船の攻撃などは些細な殺戮に過ぎなかったのでしょう。