神田日勝(かんだにっしょう)

神田日勝

昭和12年12月8日~昭和45年8月25日
十勝・鹿追町の農民画家。
笹川地区で農業を続けた戦後開拓者最後の人。

 

NHKの朝ドラ「なつぞら」

十勝の実在の人物や会社をモデルにしてドラマにしています。

今年の夏は多くの人が十勝を訪れるでしょう。
画家山田天陽もその一人で、神田日勝という実在の画家がモデルになっています。
陸別町の柴田泰樹は依田勉三がモデルで、依田は明治16年十勝に入植後、現在の大樹町でバターを作りました。その時の缶入りのパッケージは六花亭がマイセンバターに使っています。
「雪月」は、帯広の「柳月」で神田日勝の絶筆となった「半分の馬」をお菓子に使っています。

白蛇姫伝説は神田日勝が所属していた笹川敬農青年団が、昭和33年に上演した「山麓の人々」という演劇です。

奥村なつのモデルは奥山玲子で、日本初の長編カラーアニメーション「白姫伝」のスタッフとして加わっていました。

神田日勝の生い立ち

昭和12年、東京・練馬で父神田要一、母ハナの次男として生まれました。日中戦争のさなかだったため日本の勝利にちなんで日勝と名付けられます。
父親は衣料品工場に勤めた後、販売を手掛けましたが日勝4歳の誕生日に太平洋戦争に突入。事業は限界に達し昭和20年3月の東京大空襲で家族7人の生活を守るため、8月に戦災者集団の拓北農兵隊に応募しました。
疎開と食料増産を兼ねたこの帰農計画は、開拓用地の貸し付け、未墾地の無償貸与、農機具の給付など、焼け野原と化した東京での生活に見切りをつけるのに絶好の条件でした。

49人の東京疎開者たちは、終戦の前日入植地鹿追町に到着します(日勝8歳)。

入植した当時、鹿追町は柏の木が生い茂り熊笹が根を張る荒地でした。ところが、この帰農計画は無責任な話で募集条件はほとんど実行されず、与えられた農機具は鍬一丁だけでした。

やがて疎開者たちは、戦前の生活を求めて次々に帰京します。そんな中で、神田一家だけは唯一鹿追に留まり開墾を続けました。

鹿追中学に入学した日勝は美術部に入り、3つ違いの兄の手ほどきで油画を描くようになりました。兄は高校卒業後東京芸大に進みますが、日勝は高校にも行かず農家を継いで一家の柱となります。

彼は、当初は画家になる意志はなく趣味の範囲を超えるものではありませんでした。しかし、徐々に油彩画の魅力にとりつかれ本格的な創作へと意欲を燃やすようになっていきました。

その第一作となったのが、19歳の時に帯広で入選した「痩せ馬」という作品でした。翌年の昭和32年には「胴の太い馬」で2年連続の受賞となります。入植当時の日勝は、馬や牛、周辺の自然に興味を持ち毎日のように写生を繰り返し、やがてそれらを見ずとも正確に描き出せるようになっていました。

25歳で結婚。その後も次々と入選を果たし、長女の誕生、アトリエの増築、テレビ新聞の取材など、身辺が忙しくなり、定期的な展覧会はかなりの数にのぼりました。

昭和39年、この年北海道は大冷害で、この頃より過疎化が始まります。
昭和40年代に入ると大規模農業改革で機械化が急速に進み小規模農家の離農が相次ぎました。

日勝は農業に対する自分の考えをかたくなに守り続けます。そのために生活はいつもギリギリでキャンバスを買えないのでベニヤ板を切って描いているという状態でした。画家としての歩み方も農業と同じで自分のペースで行動していました。
帯広の展覧会の3年後に全道美術協会に出品し受賞。更に3年後、東京の展覧会を目指しました。

飯場の風景

農耕馬で始まった題材も、家・ドラム缶や靴などの廃品というように、常に身近なものを選びました。

地元画家の絵がほとんど売れない帯広で、日勝の絵だけは売れました。
しかし、農業と絵画という二足の草鞋をはきこなすことがやっとで、絵をもって生計の足しにするまでには至りませんでした。絵はせいぜい絵具代を稼ぎ出す程度で、展覧会の出品回数が増すにつれ出費も負担になりました。

昭和44年、31歳になって間もなく帯広の画廊で展覧会出品作16点を中心とした個展を開きます。

当時、全道展帯広巡回展会場設営の責任者を務め、夜中に何度も帯広~鹿追を往復しました。かといって、農作業の仕事量を減らすわけにはいかず体も限界に達していました。翌年の夏、雷雨のなかで牧草積みをしていた時に風邪を引き、その後も体の不調は続きました。蓄積された疲労は病名不明のまま症状は悪化。入院し病室で制作しようと絵具を取りに自宅にもどり、その直後帰らぬ人となりました。
32歳8か月という短い生涯でした。

亡くなる数日前、日勝が語っていた言葉です。

「結局、どういう作品が生まれるかは、どういう生き方をするかにかかっている。どう生きるかという問題を、絵を描くことを通して模索したい。どう生きるかとどう描くのかの、終わりのない、いたちごっこが、私の生活の骨組みなのだ」

日勝は農作業を繰り返す中で、生活を考え、その背景となる社会の仕組みを考え、そして絵のことを考えていたのでしょう。

日勝が亡くなって14年後、昭和59年に鹿追町文化連盟や地元のファンらで、神田日勝記念館建設委員会を発足。募金活動を行い、平成5年北海道で初めて個人名の美術館が鹿追町に誕生しました。
日勝が描いた絵は180点ほどでしたが、そのほとんどを個人売買したため美術館に保存されているのは、わずか25点。
(翌年に岩内町の木田金次郎美術館ができました。同じような趣旨の美術館です)

地元の人から東京疎開者といわれながらも、鹿追の開拓地で苦闘し、わずか15年足らずの短い稼業の中で最後に残した「未完の馬」が掲げてあります。
この笹川地区で農業を続けた戦後開拓者の最後の人が神田日勝でした。
開墾した土地は、日勝の死後、人手に渡って放牧地となっています。