余市のりんご

「緋の衣」は、旧会津藩士が余市で国内初の民間栽培で商品化に成功したりんご。幕末、考明天皇が松平容保に与えた「緋の御衣」から名付けられた。現在では幻の品種で、余市町の農家から原木の枝を譲り受け、会津の地で復活に取り組くんでいます。

毛利衛が宇宙船(1992年・平成4年)の中で、リンゴを放り投げる映像があり「余市のリンゴ」が日本国民に知られるところとなりました。(毛利衛の父親はマッサンと囲碁仲間でした)

まっさんが作った最初のアップルワイン

〇NHKの朝ドラ「マッサン」は、昭和5年に小樽で「自分の父は会津藩の侍」という森野熊虎(風間杜夫役)と会います。熊虎の職業はニシンの網元。ところが熊虎の義理の弟西田進(蛍雪次郎役)はリンゴ園を経営しており、熊虎を「裏切り者」とののしる場面がありました。このドラマは旧会津藩士を知るとよりドラマが面白いものになりました。

「余市のりんご」が世界のりんごと言われるようになったのは、故郷を追われ明治4年雪辱の思いで北海道に渡ってきた旧会津藩士団の人々が始まりです。

昭和59年6月18日、松平勇雄福島知事が余市を訪れました。
余市町長をはじめ、会津ゆかりの人々に迎えられます。明治維新の時、会津藩主・松平容保(たかもり)の命と引き換えに、家臣たちは北海道行きを余儀なくされ余市に渡ってきました。かつての家臣だった子孫の胸にも、万感迫る思いがあったといいます。
知事も言葉につまり「私は、徳川御三家に次ぐ、誉れ高き会津藩主・松平容保の孫として、やっと皆さんにお会いできました。私の命があるのも、皆さんの祖先である藩士の方々が、自分の命を差し出して、守り抜いてくださったからです」。
二度と戻ることのできない故郷の会津をしのび、賊軍という汚名を着せられながらも、日本一と言われるまでに育て上げたリンゴ園。長く険しかったイバラの道が報われた瞬間でした。

会津藩士が、北海道に来たいきさつは、「八重の桜」や白虎隊で有名な「鶴が城」の落城が始まりで、降伏により会津藩領は松平氏から没収されます。
藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となり、西軍は、東京で謹慎をさせていました。しかし、新政府にとっては脅威で信州に送る予定が東京、越後に分散されます。明治2年に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てます。
新政府は、これらとは別に会津藩士に北海道の開墾を命じ、これを拒めば藩主松平容保の命の保障はない。ただし、蝦夷地に移住する者を減罪とすると言い渡しました。

明治4年7月。会津藩士169戸600人は、余市川西岸の山田村と対岸の黒川村に移り住みます。藩士たちは、刀を斧や鍬に持ち替えて大木をなぎ倒し農地を切り広げていきます。住まいは5軒続きの粗末な長屋。藩士の妻たちは、わずかにとれた大豆や菜っ葉を持って、ニシン漁にわく海辺へと売りに行きました。しかし、村の者は会津藩士を「降伏人」と呼び、武士の風上にも置けぬ腰抜けとして扱ったのです。たとえ亡くなる者があっても「逆賊」である彼らは、寺で葬式も出してもらえず、自分たちで死者を 弔うしかありませんでした。

入植から4年が過ぎた明治8年4月。農業に関する学問を行い、武道場では体を鍛える会津藩士たちは、持ち前の研究熱心さと、もくもくと開墾に励む姿を買われ、開拓使から446本のりんごの木が託されます。この苗木は、黒田清隆によって道内各地へ試験配布されたもので、土地の適正を図るためのものでした。世話の仕方もわからず、枯らしてしまう者が続出します。

明治12年秋。人々は山田村の畑へと急ぎます。赤羽源八の畑で、まだ若木の樹木に赤い実が7つなったのです。更に、同じ村の金子安蔵の畑でも結実に成功しました。日本で始めてアメリカから輸入した果樹栽培を成功させた瞬間でした。このことで余市が北海道のりんご発祥の地となります。

赤羽源八が、国内初の民間栽培・商品化に成功したりんごを「緋の衣(ひのころも)」と名づけました。

江戸末期、孝明天皇が信頼の証しとして会津藩主・松平容保に与えた「緋の御衣」と、戊辰戦争降伏時に敷かれた「緋毛氈」という会津にとって明暗両方をイメージして名付けられたといいます。

近海を流れる温暖な対馬海流と、昼は高温で夜は涼しいという寒暖の差が、余市リンゴに豊かな果汁をもたらしました。

「移り住んできた会津侍の畑でリンゴが実ったそうだ」このニュースは快挙として村々に伝わり、会津の人々の空しい毎日に光が差し込みました。明治13年。札幌の農業仮博覧会に、会津のリンゴを参考品として出品。初の国産リンゴは貴重な存在となりました。

会津の人たちには、余市のりんご栽培の功労者がたくさんいます。偶然とか、ほっておいたのが実ったと思われましたが、金子安蔵氏は開拓使の「農業現術生」としてベーマーに師事した一人です。

りんご栽培に尽力した議員の川俣友次郎、開拓使に勤めた後にりんご栽培を推奨した東蔵太。余市の農会創立者三宅権八郎、りんごの販売拡張に貢献し組合を作った小栗富蔵。

余市りんごをウラジオストックに輸出した水野音吉、病害虫防除に功労した伊藤甚六・百瀬清三郎・石山亀次郎・黒河内辰巳。みんな会津の人たちでした。