幻となったロックハート城(広尾町)

広尾町サインのデザインにもなっている「サンタランド」は、1984年ノルウェーのオスロから日本で唯一の認定を受けたものです。

それを知った俳優の故津川雅彦が1988年広尾町の牧場などを約500億円投じて「夢の王国サンタ愛ランド」の建設に着手、イギリス・スコットランドの古城ロックハート城を中核とすべく私費で購入。シベリア鉄道で城を運んで広尾町に建設する予定でしたが、町と資金計画をめぐって対立しストップ。計画はなくなりましたが、町としてサンタメールの事業に着手。郵便局の協力で1987年から19年の間で191万通もの実績を残しています。

このサンタランドを訪れたことがあります。城があれば広尾町まで足を伸ばす人は増えていたでしょう。

広尾線(ひろお)は国鉄の鉄路で、根室本線の帯広駅から分岐し、十勝平野を南下し最南端広尾町に至る路線でした。

昭和4年に帯広~中札内間を開設したのが始まりで、昭和5年に大樹町まで、昭和7年に広尾駅まで伸ばして全線開通となりました。その後、沿線に新駅を設けて昭和35年に総延長84キロに17駅を設置していました。

沿線の農産物輸送が主力でしたが、道路の整備と車社会が進み、国鉄再建法の下、赤字ローカル線に指定され昭和62年(1987)2月2日をもって廃止されました。

一時は広尾駅から先の延伸計画として、日高本線の様似駅と接続する計画もありましたが、廃止から9年後に帯広駅付近は高架化され、今は一切面影が無くなっています。

駅間はほとんどが畑などに転用されていますが、駅施設は鉄道公園として整備されている所が多いのが広尾線の特徴です。

特に愛国駅と幸福駅は廃止後も、観光名所として観光客が訪れ、駅前の売店では当時の切符を販売しています。

愛国から幸福ゆき

広尾線の知名度が上がったのは1973年(昭和48)3月、NHKの新日本紀行で『幸福への旅 〜帯広〜』として紹介されたからです。周りの駅は相次いで幸福駅までの乗車券を増刷し、幸福駅付近の商店も入場券の販売をするようになりました。特に幸福駅より2つ帯広駅寄りの愛国駅と併せて、「愛国から幸福ゆき」という切符が一大ブームとなりました。

1974年(昭和49年)には「愛の国から幸福へ」(歌:芹洋子)が登場します。前年には7枚しか売れなかった『愛国~幸福』の切符が、この年は300万枚、4年間で1000万枚も売れたといいます。

観光客が多数訪れるようになり、待合室の内外に名刺や使用済みの定期券などを記念に残すようになったのもこのころからでした。廃止後は、当線の代行バスを運行している十勝バスが引き続き硬券乗車券を発売し、今でも人気があります。

「幸福」と「愛国」の地名について

幸福は近隣を流れる札内川をアイヌ語で「乾いた川」(サツナイ)と呼んでいた。明治30年、福井からの集団移住者によって拓かれた村のため「幸震」があてられ、震を「ナイ」と読ませた。難読のため音読みの「こうしん」と呼ばれるが、その後福井に因み「幸福」と改められた。

愛国は、「愛国青年団」という名の開拓団があったことによる。

2007年(平成19)に丸紅が中心になり、十勝港と道内最大級の飼料コンビナート建設が決まり、着工がはじまったので、この十勝港を見たいと思っていました。十勝の農業王国と首都圏を結ぶ海の最短距離の位置づけは、海上輸送の拠点港として期待されていたのです。

コンビナートはアメリカから直接運び込まれる飼料の巨大建設です。

左の写真は、現在の十勝港です。私が訪れた時は工事中でしたが(左の大きな建物がコンビナート)、平成29年の十勝港の輸出入額は、対前年比91.8%の132億9千万円となり、7年連続で100億円を突破。外国船の入港隻数は80隻。

主な品目で見ると、飼料コンビナートで使う飼料原料が安定的に入っており、アメリカやブラジルからの「とうもろこし」が43億400万円(同106.7%)、中国などからの「大豆粕」が13億6,100万円(同67.5%)、などが主で、後は十勝管内の製糖工場で燃料として使用されている「石炭」や中国やアメリカからの「化学肥料」が4億1,000万円(同77.4%)です。

旧広尾線に代わり、帯広市と釧路市、北見市を結ぶ北海道横断自動車道が一部開通しており、将来高規格幹線道路が広尾町(十勝港)まで到達し中枢基地になるでしょう。

政治家・中川一郎

町の外れに平成9年に開通した天馬街道(日高の浦河町に抜ける道・この道は政治的問題で一時開削がストップしていました)があります。この国道の入口近くに観光バスが止まっておりました。乗客は高齢者ばかりで「中川一郎記念館」の見学でした。福田赳夫内閣で初代農林水産大臣を務めた中川の出身地が広尾町です。

中川一郎は57歳で突然この世を去ってしまいますが、その死の真相をめぐっては未だに多くの謎が残されていいます。ちなみに、中川一郎の第一秘書だったのが鈴木宗男、中川一郎の長男が政治家故中川昭一です。

「北海の熊」と言われた中川一郎が十勝に果たした役割は大きなものがあったと思います。