羅臼港を一望できる共栄の丘「しおかぜ公園」に、知床旅情の歌碑とオホーツクの老人像が立てられています。昭和53年10月に、知床を売り出してくれた森繁への感謝と知床ブームが永続する願いが込められているといいます。2メートル四方ぐらいの歌碑は、森繁直筆の知床旅情第一番が刻まれています。
森繁プロ第一回作品「地の涯に生きるもの」で森繁が扮した姿であり、オホーツク老人・戸川幸夫の字も入っています。根室海峡と国後島を一望できる丘の上で、友人の竹脇無我らを連れた森繁は、除幕式に招かれ、知床旅情の歌を地元の人たちと合唱したといいます。
森繁久彌が現地ロケに来たのは昭和35年
夏と冬二回訪れ、地元の人たちの人情に触れ、羅臼を去る夜に自作の「さらば羅臼よ」という詩を披露しました。
この時の定宿としていた旅館で森繁は、この詩をもとに即興で歌ったメロディーを譜面にして誕生したのが「知床旅情」です。
森繁がことあれば歌い、さらに加藤登紀子が歌い、大ヒットして全国的に流行します。そうして、知床は昭和39年に国立公園指定となり、歌に誘われた人たちは知床観光にやってくることになりました。
オホーツク総合振興局(旧網走支庁)について
網走と北見、女満別空港の経緯
オホーツク総合振興局は23の自治体があり、28万7千の人が暮らしています。北海道の振興局は網走市にあるのですが、網走市と北見市の関係は微妙です。
北見地方といえば、経済面では網走まで含んでいますが、行政上からいえば北見は網走総合振興局(旧支庁)管内となります。現在、北見の人口は12万人、網走は3.5万人ですからいたし方ありません。
明治30年に設置された14支庁を、9総合振興局・5振興局へ再編する条例が2010年に施行されました。この時に唯一網走支局の改称提案がなされます。
「地域イメージをアピールできるオホーツクの名称が適切」(置戸町)とする意見が相次ぎ「網走支庁」から「オホーツク総合振興局」となったのです。
観光ガイドブックで北海道を4分割し、道央・道南・道北・道東としたときに、オホーツク管内は旭川を中心とした道北に入ったり、釧路を中心とする道東エリアに含めたりします。道東から十勝を分離しても、オホーツク管内には知床があるので釧路・根室エリアに含めることになってしまいます。
ところが、オホーツクである網走と、太平洋・根室海峡に面した釧路・根室とは産業や自然環境も違うため、とても一括りにはなりません。
ましてやオホーツクと言っても、海と内陸の北見を同じエリアとして語るには無理があるのです。オホーツク管内が農業国として十勝を脅かす存在となっているにもかかわらず、あまり知られていないのはこのような背景があると思います。
網走から小清水~斜里~清里町と内陸を車で横断すると農業大国であることに気が付きます。旭川~網走間のJR石北本線が廃線候補に上っていますが、これが現実のものになると農畜産物輸送には大きな痛手となるでしょう。
網走の方に次のようなことを聞きました
平成合併が騒がれたときに、網走市・女満別町・美幌町の合併が検討されました。この時に、網走と美幌は合併に前向きでしたが女満別が反対し、飛び地になるので実現しませんでした。その理由は女満別町が網走市と一緒になると「女満別空港」が「網走空港」になってしまうというのです。知床が世界遺産に認定され、玄関口となる空港を「女満別」では読めないし分かりにくいということです。しかし、女満別の町民は「女満別」を残したかったのでしょう。
女満別に空港があるのは何故なのかを美幌町役場の人に聞きました。
美幌にはかつて陸軍の飛行場があり、女満別には海軍の飛行場がありました。美幌は現在自衛隊の駐屯地になっており、女満別は「女満別空港」になったということです。
更に、北見市は2006年(平成18年)に留辺蘂町・端野町・常呂町と合併し新「北見市」が誕生しました。
国道39号で層雲峡を過ぎると石北峠がありますが、この峠から北見盆地を経てオホーツク海に至る東西110kmが北見市となり、北海道で一番広い地方公共団体(日本国では4番目の広さ)となりました。カーリングで知られる常呂町も北見市エリアで、オホーツク海とサロマ湖に面し網走国定公園で、砂嘴に広がるワッカ原生花園は「北海道遺産」に選ばれています。
オホーツクが中々一枚岩にならないのは今にはじまったことではありません
1859年(安政6)幕府が奥羽6大藩に分領させ警備に当たらせた時、交通上の要所として幕領になったのが網走でした。
斜里場所内の一地名に過ぎなかった網走が、オホーツク沿岸地帯の一大中心地にされたのです。網走に大番屋が置かれ、オホーツク沿岸の漁場持ちだった藤野屋運上屋は斜里にありましたが、しだいに漁業中心地は網走に移ります。
明治2年の北海道命名に際し、11国86郡名が松浦武四郎案に則って決定し、北見網走郡となります。「北見」の名は、過去のこの地域の通称「北海岸」と、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつをとって命名したものです。
網走に斜里・網走・常呂・紋別の北見国東部4郡の中心地として、開拓使根室支庁網走郡出張開拓使が置かれたのが明治5年。その後、役所名は次々と変わりましたが、行政官庁の町として網走は発展していきます。
女満別から西部、山網走と呼ばれていた地方は当初釧路国に所属し、「網尻」郡とされており北見国網走郡と合併するのは明治14年のことです。
開拓という名の農耕地化は、鉄道に沿って内陸部に及んでいきます。網走管内では丸瀬布から白滝、中越あたりは一番遅れていました。現在の石北本線で、白滝~中越間が開通したのは昭和7年のことです。
北見市は屯田兵がつくった町
明治8年の千島樺太交換条約が屯田兵制度を生みます。当時の北海道には函館に砲兵隊がいただけで広い島内に軍隊がいませんでした。明治8年に札幌の琴似に屯田兵が設置され、最後のグループは明治32年の士別市、剣淵町でした。
明治30年、屯田兵本部がオホーツク地区に設置されます。
第一中隊が端野、第二中隊は野付牛(現・北見市)、第三中隊相内、第四が北湧別、第五は南湧別と計画され約千戸入植する予定でした。(実際は997戸でした)大隊本部が置かれたのが野付牛(北見)です。北見地方全域の住人は明治29年末で7千人。屯田兵が入植してから明治44年には5万5千人。
この間に高知県の北光社100戸の入植もあり、15年間で人口は8倍に膨れ上がります。
更に、鉄道駅が十勝の池田から北上してつながり、入植者は十勝から陸別を追い越して北見に入ってきました。オホーツク管内の経済の中心が網走から北見に移るのは時間の問題でした。