水運の町
札幌の隣町、江別市は石狩川に夕張川と千歳川が合流する水運の町でした。
地名の由来は、アイヌ語のエペツ(胆汁のように濁った川)、ユベオツ(チョウザメのいる川)、イプツ(大事な入り口)など諸説ありますが、すべて川にあります。
江別市の北東部対(つい)雁(しかり)は文政年間(1818年~)から上対雁として石狩13場所の一つとなり幕末には番屋が置かれていました。更に、下ると豊平川と合流し日本海に流れていき、かつては石狩の河口から江別まで船の往来があり、交通の要衝として栄えた町です。
江別発祥の地(榎本公園)
国道12号から石狩川に沿って国道337号を下って行くと国道275号にでます。この手前は現在工栄町で「榎本公園」があります。
榎本とは箱館戦争の榎本武揚のことで、かつて榎本武揚が開拓使から払い下げを受けて農場経営を行わせた土地であることに由来しています。
公園一帯は豊平川が石狩川へと合流する地点で「津石狩(ついしかり)」と呼ばれ江別発祥の地となります。
当時は対雁番屋・駅逓もあったといいます。それが、鉄道の敷設と国道開削で町の中心が現在の国道12号に移りました。
対雁(ついしかり)百年碑
明治4年に宮城県からの入植者たちによって対雁村が開かれ、以来100年が経過したことを記念して、昭和46年に建立されました。珍しく馬に乗る榎本武揚です。
明治8年、樺太・千島交換条約が締結されると、黒田開拓使長官は漁業などに従事していた樺太アイヌ108戸841人を対雁へ移住しました。(この条約は榎本武揚が締結したものです)
その結果、慣れない生活と疫病の流行によって多くの樺太アイヌが死亡する事となります。アイヌもまた人間であると考えていた二代目松本判官は憤慨の余りに辞表を提出しました。この経緯については、次号「北海道ゆかりの人たち・松本十郎」で紹介します。
旧国道12号
私の所から国道12号に入ると10分ほどで江別市街地です。札幌に次ぐ12万人弱でベットタウンの町です。これには国道が大いに起因していると思われます。
札幌から旭川までの12号の前身は、市来知(現:三笠市)~ 忠別太(現:旭川市)間が明治19年にはじまりました。月形町の樺戸集治監の囚人が駆り出され、わずか90日後の8月に幅約2 mが仮開通します。
しかし、札幌~岩見沢間は含まれておらず、札幌市街~白石~江別(明治23年開削)、江別~岩見沢は明治22年、明治23年末までに完了しました。この後、何度も開削が行われ現在の国道となっています。
5年ほど前に、札幌江別道路(白石~江別間)の旧12号線をたどってみました。
札幌厚別区の国道12号の厚別運転免許更新センター交差点から左折、北上し陸橋を渡り、更に北へ回り現在の江別四番道線にたどり着きます。この道で江別に入りローソン寿町店で右折して(道道46号)野幌駅を目指し現在の12号に接続しました。
札幌の隣ではありますが、大変遠回りで遠い隣町です。現在の国道12号は、厚別区新さっぽろからJRと並行して国道が走り、山を開削しJRを陸橋で渡り江別市街地に到着です。
しかし、迂回した旧12号を通ってみると江別の開拓から「ものづくり」の町の歴史がよく見えてきました。
屯田兵舎
明治4年、宮城県からやってきた21戸76人の農民が最初の移住者でしたが、今度は明治11年に岩手県から12戸が元江別に、同年8月、江別太(えべつぶと/現在の緑町・王子辺り)に江別最初の屯田兵10戸56名が岩手県から入地し江別村が誕生します。明治17年に2戸が分家して12戸となり、「12戸屯田」と呼ばれていました。当初は、札幌琴似の第一大隊付属分隊として「江別太屯田兵」と通称し、屯田事務局派出所が置かれ南部藩(岩手県)出身の栃内元吉中尉(後に中佐)が所長として派遣されていました。
12戸屯田の入地に先立って、ウィリアム・スミス・クラーク(札幌農学校教頭)とエドウィン・ダン(農業技師)の指導を受けています。二人の進言で、1戸約1万坪の耕地、家畜の飼育、牛馬による開墾、そして日本で初めての土管排水が設備され、寒地向けの暖炉付き、ガラス窓入りのアメリカ式兵屋が建てられ、畜舎も付属していました。
関矢孫左衛門
明治19年、新潟出身者で組織された北越植民社が江別太で開拓を始めましたが、初代指導者大橋一蔵の急死により、第一回衆議院議員の地位を辞して関矢孫左衛門が二代目指導者となり、事業を野幌にも広げ稲作にも成功します。
現在もその業績をしのび、住居跡が千古園として公園になっています。
レンガの町
江別のレンガの歴史は、明治24年に江別太で生産がはじまりました。
明治31年に北炭により野幌に煉瓦製造所が創設され、野幌レンガの名で知られることになります。野幌地区の窯業製品(特に煉瓦)の製造は国内屈指の生産量を誇ります。明治41年、北海道最初の製紙工場「富士製紙株式会社(現:王子特殊紙)」が操業を開始。
町村農場
町村農場は、エドウィン・ダンに学んだ福井県出身町村金弥の長男で、明治15年真駒内種畜場で生まれた敬貴が米国留学から帰国後開いた農場です。
敬貴の兄弟に後の北海道知事となる金五がおり、金五の子供に亡くなられた元衆議院議員の町村信孝がおりました。
樽川(現在の石狩市)を皮切りに対雁を経て、現在篠津に移転しています。