観光客がいかない「えりも町」の旅  
世帯数2,045世帯 4,329人 (令和4年3月末現在)

開高健が「一つの山脈(日高山脈)がどのようにして息絶えるかという事実をむきだしに教えてくれた地点である」と語ったところが襟裳岬です。

襟裳岬展望台

明治22年に点灯した襟裳岬灯台はそのシンボル的存在で、年間10mを超える風速が290日以上といわれるほどの強風地域で交流センター「風の館」で体験が可能です。
ここから岬の突端まで遊歩道があり、岩が点々と続いて海中に没する様を見ることができます。
また、暖流と寒流がぶつかり合う場所で海霧の名所で岬近辺は船には難所でもありました。

岬には二つの歌謡碑が建っています。

「風はひゅるひゅる」ではじまる、昭和36年にヒットした島倉千代子の「襟裳岬」、もう一つは「襟裳の春は、何もない春です」で終わる昭和48年にヒットした森進一の「襟裳岬」です。

襟裳岬から十勝に向かう庄野までの15㌔におよぶ砂浜続きの海岸を百人浜といいます。かつてNHKプロジェクトXでも紹介された浜で町の名所の一つです。

百人浜の由来については、南部藩の御用船が遭難して乗員百人が死亡したなど諸説あります。本当のところは解明されていませんが、文化元年(1804年)、村人たちが百人の死を弔い小石に経文を一字ずつ刻んで建てたという‎供養碑「一石一字塔」残されています。

 この百人浜を舞台にした吉村昭の小説「海の柩」があります。

「村落の者たちは、なにが起こったのか知らない。ただ手のない無数の水死体が、岩だらけの海岸に、大きな魚の死骸のように漂着したのを見ただけなのだ。村落の背後には、北海道の巨大な背骨にも似た日高山脈が迫っている」
 
実は、この小説の舞台は旧JR日高本線の厚賀駅の浜でした。
今は廃線となり無くなりましたが、苫小牧からの高速道路の終点出口が厚賀になっています。「海の柩」は吉村昭が、厚賀を訪れ大学ノート何冊も取材をして書かれた小説です。小説にあたって舞台を厚賀ではなく百人浜に変えています。

「戦時中に襟裳岬に近い海岸に将兵を乗せた輸送船が、アメリカ潜水艦の雷撃で撃沈された話を聞いた。そのことだけなら、私はその海岸に赴く気も起らなかったろうが、沈没した船から上陸用舟艇に移った将校が、舟べりにしがみつく兵たちによって艇が沈むことを恐れ、軍刀で兵たちの手を斬って海辺の漁村に上陸したという」撃沈されたのは襟裳岬から30㌔ほどの沖合で、将校たちが救助されたのは様似町の海岸であり、手の無い死体が漂着したのは厚賀町だったということです。

10年ほど前になりますが、厚賀町を訪れたことがあります。厚賀の海岸に碑が建てられているのではないかと思ったからです。しかし、浜には何もありませんでした。吉村昭が調べた記録によると、死体が上がった厚賀に軍の兵士が駆けつけ死体を全員運び去ったとありました。戦時中のことですから、戒厳令が村人に布かれたのでしょう。

百人浜

現在はすっかり緑に覆われている襟裳岬周辺ですが、明治時代の終わりから昭和初期にかけては、まさに木一本生えていない広大な砂漠が広がっていました。
原因は、開拓民が燃料にするために木を切りつくしてしまったため森が砂漠化し、砂漠から飛ぶ赤土が、襟裳岬の海を茶色に染め、生活の糧である昆布を死滅させようとしていました。

この砂漠化した大地を、再び緑の森に復元させるための壮大な治山事業が昭和28年林野庁によって開始されます。この事業は延々と続けられ、平成15年には実施50周年を迎えました。

この事業を開始から中心的な作業員として、また営林局(現在の北海道森林管理局)と地元とのパイプ役として事業の推進に大きく貢献してきたのが、襟裳岬に生まれ襟裳の海で育ったコンブ漁師の飯田常雄さんでした。

2001年(平成13年)に緑化の取り組みがNHK総合「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で放送されたので見た人も多いと思います。

 

もう20年以上前になりますが、飯田さんに会おうと思って襟裳岬を訪れました。当時札幌から四時間はかかるので宿泊したのは襟裳岬にあるユースホステルでした。私は町を訪ねる目的があるので町の人との交流ができる宿を探して泊まりました。
このユースのペアレント(経営者)が面白い女性でした。ユースは大抵地元の人ではなく、旅して最終的に「ここが気に入って」住み着く人が多いのですが襟裳は福岡の人でした。地元以上に襟裳を知り、襟裳で活躍する人たちを紹介してくれました。
中でも馬で現れる夫婦の神主とはひと晩中呑み明かしました。肝心な飯田さんは寝たきり状態で会うことができませんでしたが、その代わり飯田さん監修の本を渡されました。

最後にNHK室蘭のアンウンサーが襟裳を紹介したいと訪ねてきました。一緒に取材同行となり襟裳の昭和40年代「襟裳の春」で全国の若者が40万人も訪れていた時代に、襟裳のお土産を生み出した小学校の校長先生の家に伺いました。
貴重な当時の襟裳を聞かせてもらいました。ユースは連日宿泊者で満員、寝る場所がないので屋根の上に寝る若者も居たといいます。若者が「襟裳のお土産がない。沖縄の砂ではネ~」の一言で校長が考案したのが「蝶々貝」でした。その経緯をポツポツと聞かせてもらいました。