道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

別海村 1964年(昭和39年) 13分 白黒 音声なし  札幌テレビ放送

音声がないので、推測での感想になります。

映像は大型のブルドーザーで原野を切り拓くところから始まります。

現在の別海町は酪農と水産を基幹産業とした町で、特に畜産は牧草地面積、乳牛飼養戸数・頭数、生乳生産量などは日本一のレベルです。しかし、昭和39年当時はまだ広大な原野を拓くところだったのでしょう。

蝦夷の時代には、野付場所として漁業で開けた町で、野付の支配人で秋田出身の加賀屋伝蔵が安政年間に野付付近に開墾し畑作を行っていたといわれています。
ところが、根室地方は漁期だけに入地し永住が少なかったことから、明治に入り開拓使は明治3年に漁場持ちに命じて、永住して漁業を営む者を募集し、野付へ10戸移住させました。
しかし、内陸は植民地区画がなされたまま未開状態が続き、北海道Ⅰ期か拓殖計画が終了した後も尚第二期拓殖計画が行われ、手厚い保護が加えられたため、移民は急激に増えました。
それでも冷害・凶作が続き、農業政策の転換を迫られた結果、乳牛を主体とする主畜農業に転換させる根釧原野農業開発五か年計画が昭和8年から行われることとなりました。

戦後は、昭和30年頃から床丹原野に国家プロジェクトで機械開墾のパイロットファーム(試験農場)事業が始まり、酪農近代化への第一歩が踏み出されました。
映像は、この時代の別海村を紹介していると思われます。

昭和48年からは国家プロジェクトとして935億円余の巨費を投じて、新酪農建設事業がスタートし農業施設・機械の大型化、近代化が一層進行し全国一の酪農王国として発展を遂げることとなりました。

酪農について

昭和8年、根釧(こんせん)原野農業開発5か年が行われ、乳牛を主体とする主畜農業が行われました。
昭和30年ころから床丹原野に、国家プロジェクトで機械開墾のパイロットファーム(試験農場)事業が始まり、酪農近代化への第一歩が踏み出されます。

酪農家族の生活が写されています.牛を育てる牧場、乳しぼり、宿舎へ誘導する子供たち。

鉄道

一両の鉄道が映されています。おそらく、標津線支線の別海駅―奥行臼駅の映像と思われます。

道の駅叫ぶ家族

別海町の道の駅「おだいとう」は国道244号沿いにあります。根室方面から国道44号で向かうとJR厚床駅で国道244号に入れます。道なりに北上し史跡旧奥行臼駅逓所から右折すると右手に風連湖が見え、床丹地区に入ると海が見えてきます。別海はどこを走っても車が少ないので快適なドライブとなります。
尾岱沼の市街地(尾岱沼漁港があります)手前に道の駅があります。
秋から春にかけて数百羽の白鳥が飛来するといわれる「白鳥台」が見えます。
敷地内には北方領土返還の願い「叫びの像」があり、2階には北方領土の展示室もあります。

打瀬船(うたせぶね)

打瀬舟

打瀬船による漁の風景が映されています。これは貴重な映像です。

2004年、北海道遺産に「野付半島と打瀬船」登録。 春と秋(6~7月・9中旬~10月下旬)に野付湾に浮かぶ打瀬船は風物詩として多くの人々を引き付けております。シマエビの住処であり、餌となる藻を傷つけないために三角帆で風を受ける漁法は江戸時代からあったと言われています。

この打瀬船が出ているのが別海町の港です。

野付半島は標津町から別海町にある細長い半島潮流によって運ばれた砂レキが堆積し延長26kmの日本最大の砂嘴(さし)半島です。これが奇妙な形で、まるでエビか鎌の姿をしています。この半島に途中まで車で行けます。岬に向かって走ると右手は野付湾、左手は根室海峡となります。幅が30mしかないところもあり、晴れた日は最高のドライブコース。
ところが、この半島に行くには入口は一カ所しかありません。入口は標津町からになります。野付湾は、水深1~5mと大変浅く、海底には「アマモ」と呼ばれる藻が大群落をつくっており、このアマモに北海イシマエビが生息しています。北海イシマエビは売店でも販売しています。エビ漁のために出されるのが「打瀬舟」です。スクリュー船だと水深が浅くアマモがからんでしまう為、三角帆を立てて風を利用して漁をします。