明治43年
三郷地区はさみだれ的に入植者が増え、明治43年春には40戸を超えていた。
人口が増えたのは、吉野団体乙部・甲部で農耕不適地にあたった人が、三郷地区の噂を聞き、そこの未開拓地の貸し付けを願い出て移住してきた。
常次郎の開拓の仕事は42年でほとんど終わり、検査が合格すると土地名義を西垣から森岡常三郎に書き換えた。43年春のことだった。
5町歩の土地を開墾し検査合格すると名実ともに自分のものになる。作付面積は4町5反ほどに達し、本格的な畑作農家として出発。ところが、開墾地は切り株がたくさんあって、実際の作付面積は3町7~8反程度にしかならない。切り株の存在は、作業の邪魔になり、作物に日陰をつくって育成にも大きな障害になる。この切り株を掘り起こすのは、時間のかかる面倒な作業だった。小さな株でも1時間、大きな株になると4~5時間もかかる。しかも、それが1反歩に10ケ以上あるので、4町5反なら、450~500くらいはある。1本平均して3時間かかるとすれば、1500時間。10時間労働としても150日もかかる大変な作業だった。切り株があるとないでは、土地の値段が倍も違うといわれたほど。切り株がなければ、馬を使って畑をおこし、除草など、4倍以上の仕事ができるのだ。 |
明治44年2月10日 泉谷まんと結婚(大和新団体)。常三郎24歳、まん19歳。 明治44年6月10日、長女千恵子誕生。あくる年の9月9日に死んだ。次女のみさえは3か月だった。二年後の大正4年(1915)5月3日に3女みつえが誕生。 |
三郷の地域は全体としてなだらかな丘陵がつづき、地味が肥えていて、畑作物の収穫は上士別のどの開拓地よりも多いという評判だった。このため、入植者はひきつづき増えて、大正2年には50戸にも達した。
上士別神社 明治35年19線に造られた |
吉野団体甲部(19線一帯)にいた中田房計は、新十津川で一年いた時の体験をたよりに、水田をこしらえ稲を作った。しかし、この年は天候に恵まれず水稲は大凶作だった。北海道での水田耕作は危険という見地にたち、畑作に力を入れた方がよいと思うようになった。
そこで三郷の土地に転出する決心をし、そこで「でんぷん工場」をやる思案をめぐらした。中田は自ら開いた土地を売りに出し、この土地を藤田守正が3,200円で買った。中田はかねて目をつけていた三郷の既墾地を2戸分、10町歩買って大正3年3月に引っ越してきた。そうして、でんぷん工場の経営もはじめた。
さらに三郷の下手の方に「坂長太郎」がでんぷん工場を経営していた。
坂長太郎の長男は、戦後上士別村で全国最年少村長となった。その後札幌に出て坂栄養食品の会社を設立。
戦後甘いものがない時代に、ローマ字に砂糖を乗せた坂ビスケットが人気となりヒット商品となる。
(私は45年前に坂ビスケット社長に会っているので、あらためて紹介します)
写真は現在の上士別神社です