松本 十郎
天保10年11月27日(1840年1月1日)-大正5年(1916年)11月27日)

明治時代初期に活躍した庄内藩士の大判官。開拓使で北海道開拓事業にあたりました。
旧名は戸田直温 通称は惣十郎

鶴ヶ岡城城下で物頭兼目付役の戸田文之助の長男として生まれます。通称は惣十郎。田宮流居合の修行で学問を始めたのは遅かったのですが、藩校致道館でその才を開花させ、後には江戸昌平黌に通う事を許されます。

庄内藩陣屋跡(石狩市浜益区)

文久3年(1863年)、酒井藩の陣屋が、石狩国の浜益に置かれていたことから父が物頭兼目付役として蝦夷地警備のため苫前に赴くにあたり、病弱を案じて24歳の時に初めて蝦夷に入りました。
苫前に一年、浜益に一年という経験をし惣十郎は地元のアイヌの生活を見る機会に恵まれました。

慶応元年、父と共に帰藩しましたが、4年すでに幕府は瓦解して、東北諸藩の連盟による「官軍」への抗戦で、庄内藩は朝敵となりました。十郎は軍事参謀として、藩主の降伏後は藩の周旋方として動きます。この時、朝敵藩出身である事を隠すために名前を若狭小浜藩士松本十郎と改名しました。
慶応4年(明治元年)9月、惣十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し、これが叶わなければ庄内攻撃の責任者であった黒田清隆と相討ちの覚悟で京都に赴きます。
だが、京都で黒田が西郷隆盛とともに庄内藩の恩赦に奔走していた事を知ると、松本は黒田にその非を詫び、黒田も松本の人物を認めて、自分が任じられる事となった開拓使入りを勧めました。

アツシ(厚司)

黒田清隆の推薦で明治2年(1869年)8月15日、黒田に推薦されて開拓判官となり、根室に在勤しました。
根室は北海道でも最果てという事で半ば流刑地のような状況でした。属僚130名を連れてこの地に入った松本は学校や牢獄を築いて風紀の改善に努めるとともに、殖産興業の推進を図ります。
日本人もアイヌも身分・出身を問わずに公平に扱い、彼自身もアイヌの住民から貰ったという「アツシ」と呼ばれる衣装を大切に身に着けていました。
このため、アイヌからも「アツシ判官」と称されて敬意を払われたといいます。
明治3年、漁業制度を改革。同4年、根室・西別間に新道開削。
同5年、札幌本庁兼務より翌年主任。

明治6年(1873年)、黒田の命で札幌の本庁に呼び出された松本は序列第3位である大判官(正五位相当)に任じられます。
当時、開拓長官が不在で第2位の同次官であった黒田に次ぐ地位でした。松本は放漫な財政運営によって巨額な赤字を抱えていた開拓使の行政改革と緊縮財政を進めるとともに、殖産興業を進めて移民の定住化を進めました。

明治8年(1875年)、樺太・千島交換条約が締結されて樺太のロシア帝国への譲渡が決定すると、黒田は和人と雇用関係にあり漁業などに従事していた樺太アイヌ108戸841人を北海道に移住させて、北海道内陸部の農業開拓に従事させようと計画。
だが、松本は彼らの生活環境の維持を優先して樺太に近い北見国宗谷郡で本来の生業である漁業に従事させる事を主張して激しく対立。
だが、翌年松本を無視した黒田によって、アイヌたちは対雁(現・江別市)への移住を余儀なくされました。その結果、慣れない生活と疫病の流行によって多くの樺太アイヌが死亡する事となります。アイヌもまた人間であると考えていた松本は憤慨の余りに辞表を提出しました。

明治9年9月13日、開拓使を満7年で辞職すると故郷の山形県鶴岡に帰り、ふたたび官につこうとせず、38歳から以後、大正5年11月27日、78歳で没するまで一介の農民として生涯を送りました。
官にあった時も農民だった時も時に酒を親しむ以外は質素な生活に甘んじ、開拓大判官時代でさえも家に書生を1人置いただけであったといいます。