明治26年5月~昭和52年1月6日
旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。
父は上川アイヌの長、7代目イタキシロマ。
母はアベナンカ。
北海道教育大学旭川分校の向かい側に「川村カ子トアイヌ記念館」があります。
上川アイヌの村長を務める名門の家柄で、現在館には9代目になる川村兼一氏が住んでいます。
近年アイヌ民族に光があたり、兼一氏が祖父を語る機会が増えています。
記念館は大正5年に、カ子トが私財を投じて開設したもので102年間維持してきたのは奇跡といえるでしょう。
阿寒・白老・平取などアイヌ民族の資料館がありますが、私が訪れた中ではアイヌの本物に触れる思いがしました。金田一京助と知里幸恵が出会い、アイヌの「木彫りの熊」が誕生した場所でもあります。
生い立ち
明治26年、永山で第七代目村長の長男として生まれます。
翌年に、道庁は近文にアイヌの付与予定地を確保し住み慣れた土地(現永山地区)を追われることになります。(第七師団設置に伴う措置でした)
父に「シャモ(和人)なんぞに負けるな!お前は上川アイヌの村長となる男だからな」と励まされ、いよいよ小学校に通い始めます。
ところが、同級生は皆シャモと呼ばれる子どもばかり。
カ子トは差別を受け、ことあるごとにいじめられます。
父は「悔しいだろう。悲しいだろう。それを糧に強くなれ」。
ヤチダモの木の幹にナイフで「川村カ子トの木」と彫り、アイヌ民族である誇りと勇気を与えます。
そんなある日、野原の中に二本の鉄が長く続く奇妙なものを見つけます。
陸蒸気と呼ばれた鉄道は、明治の人々の生活を大きく変えようとしていました。労働者のほとんどは囚人とアイヌで、特にアイヌは山歩きに慣れているうえ半分の賃金で雇うことができるため好都合でした。
卒業が迫った日、担任教師に相談します。
「鉄道で働きたいんです」教師に「村長の子供らしくでっかいことをやる人間になれ」と励まされます。
紹介状を持って、鉄道事務所を訪れると「試しにトランシットの箱を担いでみろ」測量器具で大人でも背負うのに一苦労の重さ。
これを担ぎ上げますが、足がふらつきます。「それを担いで山を歩くんだ。お前にできるか」「できます」こうして13歳で、北海道開発の中で重要な鉄道の仕事に就くことになりました。
鉄道は、まず測量から始まります。土地の高低を計って設計図を作るので、その測量隊を助けるための鉄道人夫でした。
器材や食料を運んだり、邪魔なものを取り除いたりする重労働。原生林が阻む中、足場の悪い岩場でも平気でよじ登り、熊が出没した時には勇敢に闘います。測量隊や上役には讃えられますが、同僚の人夫からは妬まれ川に突き落とされたり、崖の上で転ばされたりが日常茶飯事でした。
ある時、自分の日給が和人の半額であることを知ります。
組長にそのことを尋ねると、烈火のごとく怒り「給料をもらえるだけありがたく思え」。
不当な扱いに苦しみながらも測量技手の資格を取るための勉強を始めました。
技師を助ける専門職で小学校上がりの人が合格するのは稀なことでした。
一年後、見事に合格します。
鉄道省に任命され、宗谷本線、根室本線をはじめ、道内の鉄道建設の先頭に立つことになりました。そうして、川村カ子トの名は、全国の鉄道関係者の間に広まっていきました。
大正15年、33歳の時、大きな転機が訪れます。
彼を訪ねてきた人物が「三信鉄道(現在のJR飯田線)は未だ開通していません。
どうしても一カ所だけが、手付かずで残されているのです」天竜川の深い峡谷で、建設を拒んでいました。
カ子トは「大変光栄です。私は目の前に与えられたことから目を背けたりしません。ぜひ、やらせてください」。さっそくアイヌ民族の間で測量隊を結成し、6名の若者とともに天竜峡に赴きました。
大正15年4月、愛知県天竜峡に到着。
アイヌ測量隊と地元人夫や十数名は、一日目から険しい自然に阻まれ困難を極めます。カ子トの声が天竜峡にこだまします。全員が彼の指示通り正確に動かなければなりません。やがて、日が経つにつれカ子トの噂が地元に知れ渡り、働きたいと押し寄せるようになりました。そうして、5年後に測量を完了。しかし、それで終わったわけではありませんでした。
「折り入ってお願いがあります。現場監督になってほしいのですが」現場監督となると、全国から寄せ集めの荒くれ者たちを指揮しなければならない。今までの気心知れた仲間とは違います。
引き受けましたが、信じがたいほどの困難が付きまといました。
アイヌ民族であることで、ついに恐れていた事件が起こりました。
トンネル工事現場で、岩盤の裂け目から水が噴出、「裂け目をコンクリートでふさげ」その時、カ子トの体に激痛が走りました。つるはしで殴られたのです。
「いい気になるなよ。おまえなんかにこき使われるのはまっぴらだ。コンクリートと一緒に埋めてしまえ」男たちによって土砂で埋められ始めました。
「俺を殺そうというのか。それで気が済むのならそうすればいい。だが覚えておけ、本当に哀れなのはお前たちの方だ」その言葉に男たちの手が止まります。
「俺は測量に命を張ってきたし、アイヌ民族であることにも誇りを持っている。アイヌ魂が天竜峡の測量を可能にした。だから死んでも悔いはない。だがお前たちはこれまでに何か誇れるものはあるのか。俺を殺すのがお前たちの誇りだというのならコンクリートを流し込め。それを自分たちの妻や子に胸を張って伝えるがいい」
この事件以降、カ子トに尊敬の念を抱くようになりました。
こうして三信鉄道最大の難工事は、2年後の昭和7年関通に至りました。
北海道に戻ると、樺太・朝鮮の鉄道測量にも従事しましたが、視力の衰えで引退をしました。昭和52年、84歳の生涯を故郷旭川で終えました。
愛知県三河地方では、カ子トの生涯を題材にした子供と大人による合唱劇「カ子ト」を、信州各地で公演しています。第一部では、カ子トの孫川村兼一氏が登場し、アイヌの民族芸能を紹介しています。