おしゃまんべ町名の由来は、アイヌ語オシャマンペ(ヒラメのいるところ)という説があります。

国縫川

1669年、国縫川を挟んで松前藩とシャクシャインが率いるアイヌ民族の戦場となった地です。古戦場に建てられた碑文

『一六六九(寛文九)年和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのあさシャクシャインがアイヌモシリ金城に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。
シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川を挟んで松前藩と対峙する。
アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベからさらに本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。
 シベチャリに退いたシャクシャインは松前藩との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終焉に向かった』

その頃の長万部はアイヌ人の集落でオットセイ漁を行っており、松前藩はユウラップ場所で小規模な交易だったようです。

1855年南部藩は警備のため、この地に分屯所を設けており今も陣屋跡が残されています。
翌年、平沢豊作と森田八内が開墾の目的で移住、旅宿や馬追いを経営していました。これが最初の和人の定住とみられています。

1857年に竹内弥兵衛が亀田から移住し、旅宿や馬追いを営んでおります。竹内は後に初代の副戸長となりました。
同年、箱館奉行所の募集に応じて、関東・越後の農民が100名ほど移住し栗木岱他3か所に御手作場を開きました。この移民は残ったのは5名でした。
明治10年代にも入植が続きますが出る者も多かったようです。

明治24年、それまで拾い漁のみが行われていたホッキ漁に佐藤佐太郎らがホッキ貝捕獲機を使い始めました。
明治29年には倉光和吉が水田を開き、熱心に稲作に取り組んでいました。

戦後は酪農を奨励。昭和33年には乳牛飼育頭数が千頭に達し、町営牧場も備えています。漁業はカレイ・ホッキ貝、ホタテの養殖も盛んです。
平成5年ワイングラス型の国縫漁港が完成しました。

かにめし弁当

戦後の食糧難の頃、米はなくても長万部には毛ガニがありました。ゆでただけの毛ガニも貴重な食糧として名物になっていました。
今もカニの直売所があり、駅弁の「かにめし」が知られています。