しゃこたん町名の由来は、アイヌ語でシャク(夏)とコタン(村)の二語を合わせたもので、意味はシャクコタンで夏場所という意味です。
慶長(1596年~1615)年間には美国・積丹場所が設定されていたといわれています。知行主は美国が近藤家、積丹は藤倉家が世襲でした。
1822年頃アイヌ人は美国で54人、積丹は82人居住し、漁猟で生活を立て、土着のアイヌ人と和人の出稼ぎ者で集落を形成していました。
その後の請負人の交代はあるものの場所は次第に開発が進み、1854年には漁獲高が美国で1万1千石、積丹で7千5百石に至っています。
1860年頃に大網漁が許可されると生産力も上がりますが、和人も増えアイヌ人は減少していきました。
明治以降もニシンの本格漁場として繁栄します。
明治17年に広島県の開拓団体、井上幸助ほか18名が入植し、その後も広島から継続して移住しています。
昭和に入り、美国漁港も建設されますがニシン漁は衰退していきました。
戦後は漁港の整備が行われサケ・マスの放流を行うとともに、パイロット事業で酪農の振興も行いました。
明治末から観光客が訪れていましたが、昭和38年ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、昭和46年海中探勝船ね就航、海中公園として整備されました。
昭和31年に美国町・入舸(いりか)村・余別村を合併し積丹町となりました。
海岸部は積丹岬・神威岬など奇岩と絶景の多い景勝地で、夏には北海道有数のレジャー地として年間120万人以上の観光客が訪れます。
平成8年には国道229号も半島を一周し神恵内村につながりました。
島武意(しまむい)海岸は「日本の渚百選」にも選ばれた自然豊かな町です。
ソーラン節
北海道の中でも古い歴史を誇り、その歴史を誇る上で忘れてはいけないのが、紺碧の海に大挙して押しよせた鰊の大群です。
”ヤン衆”たちは魚影を追い続け、数々のドラマを生み、その代表作として「ソーラン節」が誕生しました。
ソーラン節とは、あふれんばかりの鰊でいっぱいとなった網を引き揚げる時の「力入れ」の唄であり、ヤン衆によって北海道はもとより、全国へと広がっていきました。