枝幸(えさし)町名の由来は、アイヌ語のエサウシ(岬の意)。
平成18年、旧枝幸町、歌登町と合併して(新)枝幸町が成立しました。
貞享年間(1684~1687年)に松前藩直領の漁場が宗谷場所として開かれていました。安政年間に入り、警備上幕府の直轄となり、この地は秋田藩に警備が命じられ牧野兵五郎らが在勤しますが、漁期が終わると住民はアイヌだけでした。
明治11年、枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の四村を設置。
青森県下北出身の佐賀長兵衛が岡島で独立自営しニシン建網漁を行います。
また、同じころ津軽郡の白坂藤吉は道内を転々としていましたが、定住したといわれています。
明治17年に入地した竹内という人は、10年後に牛の飼育をはじめ、搾乳も行い枝幸市街で販売をしていました。
明治24年には市街地区画が設定され、さらに移住者が増えます。
明治29年にフーレップ川で砂金が発見され、その2年後に堀川泰宗がパンケナイで鉱脈を掘り当て、ウソタンナイ・ペイチャンでも発見、ゴールドラッシュにわき、総計480貫を算出したといわれますが、1900年代には認可制となった事もあり下火になりました。
枝幸漁港を中心に毛ガニ・サケを主に水揚げ。
「毛がに」の漁獲高日本一ですが、鮭は日本で三番目の水揚げ量があり、遡上する前のいわゆる銀毛の鮭が多いのが特徴です。
市場関係者には名が知られ、脂がのったメヂカ鮭や鮭児も水揚げされます。
近年はホタテ稚貝撒き漁業を伸ばし安定した漁獲量を保っています。
酪農も盛んで、山臼大規模草地牧場を持ち、乳牛を飼育。森林面積が町の70%を占め、造林を積極的に進めています。