そうべつ地名は、アイヌ語のソ・ペッ(滝の川)に由来しており、この滝は洞爺湖から壮瞥川が流れ出す地点にかかる瀑布「壮瞥滝」のことです。
明治12年、岩手県出身の千葉力之助が滝之下に移住し、この町の農業発祥の地といわれようになりました。
毎年移住が続き、明治16年に阿波団体が入植。
明治19年には中島地区に橋口文蔵が農場を開設し、小作を入れて開墾を始めました。欧米式農業を取り入れ、小作や近隣の人々とも接し、慕われていたといいます。
橋口は米国留学から帰国の際、苗木を持ち帰り植栽して約1万5千坪の土地にリンゴを栽培し、この地のリンゴ園の先駆となりました。
(橋口文蔵は鹿児島出身で開拓使に勤務、官費留学生として明治12年マサチューセツツ農科大学に留学、14年帰国後農商務省などに努めていた)
国道453号沿いには観光果樹園が並び、くだものロードと呼ばれています。
農業は豆類などの畑作やリンゴなどの果樹栽培が主で、大福豆の収穫量は全国一にもなったことがあります。
有珠山は昔から噴火を繰り返していますが、明治43年には北麓で水蒸気爆発が起こり隆起して明治新山ができました。
昭和18年から起きた噴火により昭和20年に東麓の畑地が隆起し昭和新山が形成されました。
その生成過程を壮瞥郵便局長だった三松正夫が、後にミマツダイヤグラムと命名された詳細な観察記録として残しました。
三松の記念館が建てられ資料が展示されています。