わっさむ名の由来はアイヌ語のアッサム(オヒョウニレの木・(の)傍ら)からついたとされています。「輪寒」「和参」と書かれた時代もあったそうです。

明治30年以前は、天塩川沿いにアイヌの人たちが住んでいるだけでした。

明治30年、秋田県人菊池伊七が和人最初の定住者でした。
明治32年に天塩線が和寒まで開通し、植民地区画の測量、屯田公有地の民有化で次第に戸数が増えていきます。
明治35年に菊野地区に富山の中川清太郎代表で35万坪余、兵庫の一柳慎が中和地区に31万坪余の賃下げを受け、この頃からペオッペ、和寒原野に佐賀・越中・茨城から次々と入植するようになります。
明治37年以降、三井物産造材部和寒出張所が設置され、大量の木材を搬出するようになりました。

明治40年、中和地区に入植した涌井藤七が湧き水を利用して10坪ほどの水田を造り6斗の収穫を得ています。「水田発祥の地」の碑が建てられています。
灌漑溝の整備により稲作が開けていきました。

ペオッペ川に明治末から砂金採取がはじまり、大正期に最盛期を迎えました。
大正12年に塩狩温泉が創業しました。

越冬キャベツ

かぼちゃやキャベツ、アスパラなどの野菜や、きのこの生産が盛ん。

キャベツを、収穫せずそのまま雪の下で保存する「越冬キャベツ」発祥の町。

 

 

 

塩狩峠

三浦綾子記念館

明治42年2月28日、南の比布町との境に塩狩峠があります。
この区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかけたところ、当時鉄道員でありキリスト教徒であった長野政雄(ながのまさお)という男が列車に身を投げ、客車の下敷きとなり乗客の命が救われました。

この実話を元に、三浦綾子が「塩狩峠」を著し、これを記念し塩狩峠記念館及び文学碑が建てられています。