なよろ名の由来はアイヌ語のナイオロプト(渓流に注ぐ口)からと言われています。名寄川が天塩川に注ぐ様子をいったものです。
明治30年に道庁告示で、名寄村は上川郡上名寄村と中川郡下名寄村を設置しました。上名寄村が現在の名寄市になります。
名寄に初めて入地した和人は大屋敷磯吉という人で、明治31年ごろ天塩川沿いに移住し開墾したとされています。
上名寄村も屯田兵による開拓予定地でしたが、制度が廃止になり移民招致区域となりました。
明治33年、士別~名寄に至る仮県道が開削され、山形県人太田豊治ら34名で移住団体を組織、曙地区に13戸の先発隊と共に入地しました。
また、福島県永井庄助の先発隊13戸、富山県大谷治郎市の越中団体21戸などが入りました。
このころは日進区と内渕にアイヌ人が13戸移住していました。

明治36年、天塩線が名寄まで開通、宗谷線、名寄線の開通により交通の要衝となります。更に、昭和2年には高等女学校も設置され上川有数の町となりました。
もち米の他、ジャガイモ・カボチャなどを栽培し、日本有数のアスパラの産地でもあります。
ひまわり畑