八雲町は2005年(平成17年)10月1日に旧八雲町と熊石町が合併し新八雲町となり、日本国内で唯一となる太平洋と日本海に面する町になりました。
やくも町名は尾張徳川家17代当主の徳川慶勝が、日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引用して名づけたことに由来しています。
天正~慶長の間に遊楽部場所を開設、野田追場所も1669年には成立しており、1798年には善九郎という農民が居住していたといいます。
この地が幕府直轄となると請負人を入札制度にし産業も奨励。
遊楽部場所を山越内場所と改称、野田追なども和人の移住が増えたため山越内に蝦夷地と和人地の境を北上させ関所を設けました。
明治11年、尾張藩士徳川慶勝は北海道開拓により国に貢献し、旧臣授産の道を開こうと150万坪の下付を受け、藩士を移住させました。
これが徳川農場のはじまりで、この町の団体移住の最初でした。明治14年には更に移住者が増え47戸260余が入地しました。
農場では牧畜も手掛け、混同農業を行い、加えて味噌・醤油の醸造にも着手し尾張八郡を象徴する尾張藩の印丸八を創業の商標と定め発売しました。
この商標は現在の服部醸造に引き継がれています。
江戸時代から遊楽部銀・鉛山が採掘されていましたが、昭和6年八雲鉱業により本格操業し昭和44年まで続いて閉山しました。
木彫熊発祥の地
大正12年、スイスに旅した徳川義勝が農民が彫っている熊を見て、農家の冬の副業にすべく持ち帰り、翌年、伊藤正雄がそれをモデルに制作し北海道における木彫熊第一号となりました。