志海苔館は志海苔川の河口にありました。

この川の上流で蹉跌が取れたため、多くの鍛冶屋が海峡を渡って志海苔館付近で商売をはじめました。函館から約20キロのこの一帯には、100軒を超える部落となり大変な賑わいとなりました。

アイヌ人が一人前になるには、「熊」をひとりで召捕ることでした。これでようやく結婚が認められる掟のような風習があったのです。

1456年の春に、志海苔館近くのコタン(部落)の少年が雪解けを待たずに一頭の小熊を生け捕ってきます。コタンは大騒ぎとなり、長老は一人前と認め「マリキ(小刀)」を持つことを認めます。少年は大喜びで、志海苔館の鍛冶屋に駆け込みマリキの注文をしました。

少年はマキリが出来たころ、熊の肉を持って鍛冶屋に取りに行くのですが、少年は「マリキ」の出来があまりにも悪いので文句をいいます。

鍛冶屋は「出来が悪いかどうか試してやろう」と、少年を刺殺してしまいました。

コタンの長老は、アイヌの仕来りに従い、鍛冶屋に「悪いことをした者は、詫びの証として自分の持っているモノを差し出して詫びて欲しい」と迫ります。

ところが鍛冶屋は、悪いのは少年の方で詫びる必要はない、の一点張りで話になりません。仕方がないので、志海苔館の館主小林氏に鍛冶屋に詫びを入れさせてほしいと頼みに行きます。ところが、小林も鍛冶屋と同じで「悪いのはアイヌだ」で取り合おうとしません。

長老は困り果てて、渡島地方の実力者コシャマインに相談に行きました。

渡党(和人)が蝦夷に上陸してきてから、どんどんアイヌに不利になっていくばかりで、コシャマインは話しを聞いて渡島半島のアイヌに檄を飛ばして「アイヌ民族の蜂起」を呼びかけたのです。

こうして、蝦夷における「アイヌ民族3大蜂起」の一つコシャマインの戦いが1457年に起こりました。蝦夷地から和人を追い出してしまおうというもので、道南に建てられた「12の館」の攻撃が始まります。

最初に襲われたのが志海苔館で、館主小林は殺害され難なく館は崩壊します。
次に宇須岸館で、この館は箱の形をしていたことから後の「箱館」の地名になったところです。
続いて中野館、脇本館、穏内館・・・と計10館を攻略し、残ったのが茂別館(現在北斗市)と蠣崎氏の花沢館(現上ノ国町)だけとなりました。

ここで登場したのが、蠣崎氏の客将であった武田信広でした。
武田はある謀略を仕掛けます。それは、コシャマインに和睦を持ちかけたのです。アイヌはこの和睦にめっぽう弱く、それが敵の罠であることを知っていても応じてしまうのです。これを武田は利用しました。

コシャマイン親子を館に招き入れて、酒を飲ませて殺害してしまいました。

この蜂起は一旦おさまりますが、これから350年間に渡って、アイヌ民族と和人との攻防が続いていきます。