明治35年、山田松次郎がクテクウシ(アイヌ語で鹿を追う)原野に入植。
1900年(明治33)代になって次々と入植がありました。その中に、明治38年、中河才助が上然別に入地しています。

明治43年に音更村駒場に十勝種馬所が開設されるため、入植していた人たちが交換付与地としてクテクウシ原野が当てられ、太田理三郎や山田茂八郎がおりました。

大正期に入ると画外7番地に宮城団体他が、東土狩に十勝開墾会社の小作人が入植し開拓が進められました。
大正から昭和初期に稲作も行われましたが、戦後畑作に転じ、大型機械農業へと移行し、昭和40年代から乳牛飼育も本格化していきます。

然別湖

大正9年、山形県人の清野正次が然別湖畔温泉を発見。

2年後に温泉宿を開いています。昭和4年に、後の帝銀事件で獄死した平沢貞通が訪れ然別湖を画いています。

 

 

 

神田日勝記念館

昭和12年東京で生まれ、8歳で終戦直前に集団疎開で鹿追へ移住し、農業の傍ら独学で油絵を描き、若くして亡くなった神田日勝を記念して平成5年に記念館が作られました。

絶筆の「馬」を含めて、愛用の用具箱などが展示されています。

 

 

 

神田日勝については下記をご覧ください。

北海道ゆかりの人たち「神田日勝