たかす名の由来は、かつてトンビやタカが多く、アイヌ語でチカップニ(大鳥が棲むところ)と呼ばれていたのを意訳して「鷹栖」の名が付きました。
鷹栖という地名は、旭川市にも東鷹栖地区があります。これには分村の歴史があります。
明治25年石狩川右岸一帯を鷹栖村とし、大正13年に鷹栖村は東高鷲村(現在の旭川市東鷹栖地区)・鷹栖村(現在の鷹栖町)・江丹別村(現在の旭川市江丹別地区)の三村に分かれました。

1822年には上川アイヌの人たちは500人以上住んでいました。

明治27年、石狩川を中心に支川沿岸に点在していたアイヌ民族を近文地区に集団化させます。生活の保護め近文原野に給与地163㌶余を譲渡したものです。
チカブニ原野の区画測量が明治24年に始まりましたが、これよりも前に埼玉県人で後に村の総代となる小暮粂太郎らが移住し、一時的にアイヌの予定地付近に入地し開墾を行い、測定終了後一人10㌶ずつ賃下げを受けました。

団体移住としては2年後に桜岡万九郎を団長とした第一次岩手団体が入り、同年に185戸777人と移住者が急増しました。

明治26年、山崎千松らにより水稲の試作に成功。5年後には1㌶余の作付けがあり品種改良などにより更に進展。
昭和初期には上川地方は本道稲作の中核地帯となりました。

鷹栖町郷土資料館 

木簡

全道で2つ(本資料館および北海道開拓記念館)しか展示されていない木管の模型が展示されています。
石狩川から取水するための計画、水害を食いとめるべく町に流れるオサラッペ川の整備にかけた苦労の足跡が記されています。

洪水に苦しめられたオサラッペ川改修は、戦後道営・国営の改修事業を行い、河川敷に公園も作られています。

オサラッペ川にメロディー橋

オサラッペ川に架かる北野橋は音曲を奏でるメロディー橋となっています。
北野小学校の児童の通学路でもあったことから、子どもが傘を持ちながら歩く際に橋の欄干などで音を出しながら歩く様子にアイデアを得て、歩きながら鉄筋を叩くと曲を奏でるという橋を建設。
曲は童謡のなかから「夕やけこやけ」を選曲。

田んぼアート

生産地と消費者のつながりを深め、農業に興味・関心を持ってもらうようにと、JA青年部が中心となって毎年『田んぼアート』に取り組んでいます。
稲の葉色の違いを利用して水田をキャンパスに絵を描きます。2018年は「北海道150周年を記念した動物たち」をモチーフに、ヒグマ、キタキツネ、オオワシ、ユキウサギ、タンチョウが、縦40メートル、横170メートルの水田に描かれ、7色の稲で鮮やかにくっきりと彩られた巨大な絵が、水田に浮かび上がります。