礼文はアイヌ語でレプンシㇼ(沖の・島)と呼ばれ「レプン」に字を当てたもの。
礼文島は稚内の西方60kmに位置する礼文郡礼文町にある島です。
もともと礼文島は大陸の一部で新生代初期に海面上昇し離島になりました。
早い時期から離島になったことと、海霧などの気象・地質などの影響で平地でも高山植物が育成しています。レブンアツモリソウなど300種を超す植物が咲き誇ります。
蝦夷の時代、礼文アイヌの人たちは利尻に出向いて交易をしていました。ナマコ・ニシンの他にオットセイ猟が盛んに行われていました。
1804年ころは289人のアイヌが居住していましたが疫病で50年後に66人になり、和人の移住で漁場持制度が廃止された頃は21人になっていたといいます。
1846年(弘化3年) 陸奥国三厩村(現青森県)から移り住んだ柳谷万之助が尺忍(香深)に渡島漁場を開きました。後に善太郎が継ぎ明治39年に亡くなるまで漁業の改良、村政に尽力しました。
明治18年 小樽-利尻-礼文間に航路が開かれました。。
明治37年、富山県人が船泊に移住、タラ延縄漁法をはじめタラ漁が急速に発展しました。大正末から動力漁船により沖合漁業も発展。
昭和30年以降ニシンが廃れホッケ漁が盛んになり「礼文のホッケ」は人気です。
「礼文島」は「日本の秘境100選」に選ばれています。
稚内および利尻島との定期航路を運行しており、中心集落である香深(かふか)・船泊(ふなどまり)をはじめ島の東海岸・北部は比較的開けています。
島を縦断する道路は、東海岸にあり、西海岸は地形が険しく、西からの強い季節風が年中吹き付けて気候が厳しいため、高い木の生えない荒涼とした笹地が多い地形になっています。
最北部須古頓(スコトン)岬から西岸沿いを縦断するトレッキングコースが整備されております。
冷涼な気候のため、最高峰の礼文岳(490m)から島の西半分にかけては高山植物が分布し、利尻礼文サロベツ国立公園にも指定されています。