えさし町名の由来は、アイヌ語のエサウシイ(頭が・浜に・ついている・所)、
すなわち「岬」という説があります。江差追分発祥地です。

かもめ島

かもめ島を望む江差湾に、明治元年榎本武揚らが乗船し箱館戦争真っ最の中、暴風雨のため江差沖に座礁、沈没した開陽丸が再現されています。

この地に和人が住み始めたのは古く1189年に義経が衣川で自刃した後、藤原泰衡一族が上陸したのが始まりと言われています。

1678年には北前船によるヒノキアスナロ(ヒバ)、ニシンの交易で人口は3万人を超えました。

1681年に新潟出身の関川与左衛門が江差姥神町に定住し酒造屋を営み、更に回船業も経営し繁盛しました。多くの北前船で本州各地と交易し、松前藩の御用商人として代々名字帯刀を許されていたといいます。

横山家の初代も1769年から漁業、商業、回漕業を営みました。

また近江出身の呉服商人、大橋宇兵衛も大正4年まで事業を行っていましたが、現在の中村家は、店の支配人格の中村米吉に譲渡したものです。

松前藩の財源は藩政初期は林材からはじまり、1751年以降はニシン漁業に主体がおかれ、藩の最盛期を迎えました。

寛政年間には盛岡から来たというケンリョ節の名手、座頭の佐之市が江差追分を大成します。

1852年松前藩により「かもめ島」に砲台が設置されるなど「江差の春は江戸にもない」と謳われるほど政治・経済・文化の要所として栄えました。

明治以降は行政の中心が函館に移り、ニシンの衰退とともにかつての勢いはなくなりましたが、今も町には数々の史跡が残り当時をしのぶことができます。
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