鎌倉時代初期の北条義時の時代から蝦夷を支配していた津軽の安東氏の下、せめぎあっていた12の豪族の中の一人蠣崎氏の客将、武田信広がコシャマインを制圧し、蠣崎氏と縁続きになり優位に立ちました。

洲崎館跡

上ノ国の洲崎に館を構えたのが松前藩の歴史の始まりとなりました。
(史跡上之国館跡 洲崎館跡(国指定史跡))
1514年、二世光広が安東氏の代官となり、独立した直臣と認められたことにはじまり1593年に五世慶広が豊臣秀吉から蝦夷島主の制書を、次いで1604年には徳川家康から黒印制書を受けるなど、時の権力者に恭順を示し、松前と姓も改姓、1600年福山館を築城、松前藩の基盤を築きました。
やがて外国船が開国を求めて来港するようになると、幕府は蝦夷地を直轄するため松前藩を奥州に移封し、各地に番所・陣屋を設置しました。
開国、明治維新を迎え、1868年に下級武士のクーデターから勤王派となった松前藩は箱館戦争で旧幕府軍に攻撃を受け落城。
現在の厚沢部町内に再築城するも着工75日で未完のまま攻撃により焼失しました。ここに松前藩は事実上終わりを迎えました。

知行場所

慶応3年ころの福山城

米の取れない松前藩は、家臣を米ではなく蝦夷地内に知行場所を与えアイヌと交易をさせることで利益を得ていました。
更に、武士に代わり商人に交易をさせる請負となり蝦夷の開拓も進みました。
一時代を築いた松前でしたが、明治以降は経済や行政は函館に移り、かつての勢いはなくなりました。
昭和15年に福山町から松前町に改名、昭和29年に大島・小島・大沢村を合併し今の松前町となりました。