手稲区1989年に西区から分区して誕生しました。

手稲という地名はアイヌ語の「テイネィ/teyne-i」(濡れている・もの)に由来し、区市街地の広がる山麓の開拓される前にあった低湿地帯を指すといわれています。

・1872年 発寒村から分離、手稲村が開村。

手稲は、明治の初期に北海道の開拓を支える交通の要所として開けた街です。

開拓当時、主に小樽港を基点に物資の補給が行われていたので、軽川(現在の手稲本町)やサンタロペツ(現在の富丘)が、小樽港から開拓使本府の置かれた札幌への陸上輸送の中継点となりました。
物資の集散地区となった軽川やサンタロペツには人々が集まり始め、集落が形成されるようになりました。

明治の中ころになると手稲山口に山口県から、星置には広島県からそれぞれ入植者があり、農耕地の開墾を始めました。また、不毛の地であった前田や新発寒は、酪農を主とした農場へとその姿を変えていきます。
明治の終わりには、新川の川辺などで土器のかけらが発見され、昭和に入ってからも完全な形の土器が見つかり本格的な発掘調査が行われました。
その結果、紀元前2000年もの昔に先住民族が生活していたことがわかり、この遺跡は「手稲遺跡」と名付けられました。
明治の中ころには手稲山で金鉱脈が発見され、昭和10年代には鉱山が最盛期を迎えました。東洋一の選鉱場をもち、にぎわいをみせていた鉱山も、戦後次第に衰退し、昭和46年に閉山しました。

昭和42年、手稲町は札幌市と合併。
以後、新興住宅地が次々とでき、発展のスピードも急ピッチとなりました。
昭和47年に札幌市の政令指定都市移行に伴い(旧)西区となり、また、札幌冬季オリンピックが開催され、アルペン競技やボブスレー、リュージュ競技の会場となった手稲山は世界にその名を知られるようになりました。
平成元年11月6日、人口の著しい増加に伴ってそれまでの西区から分区し、いまの手稲区が誕生。
手稲区は、手稲町時代からの市街地と昭和40年代以降開発された新しい地域で構成され、分区から10年で30%以上も人口が増えています。