この地は比較的気温が温暖であったため、天然産物が獲れる沙流川沿岸にアイヌ民族が住んでいました。そのため、慶長年間には松前藩の沙流場所が開かれていました。
ところが、場所請負人は産物の多い場所に労働力として移動させてアイヌ集落の崩壊を招きました。
18世紀末になると幕府直轄となり、保護対策とともに同化政策も行い帰俗土人をつくったため民族文化の喪失される結果となりました。
明治に入り、戸籍法の発布でアイヌ人も新たな法のもとで土地の登録をすることになります。しかし、狩猟民族のため土地の所有は無意味で従来の土地を追われ、生活を脅かす結果となりました。
明治2年、沙流郡支配を許可された仙台藩は三好清篤を団長に平取などに入植しましたが、まもなく罷免となり何もしないで帰郷しました。
明治3年、新潟県の吉田半兵衛、滋賀県の牧野熊次郎が入植します。吉田はその後、商業を営みました牧野は転出しました。
明治14年、工藤作助が沙流牧牛場の経営に当たっています。
明治20年だに入り、北海道土地払い下げ規則の制定とともに移住者が増加します。水田の試作がはじまり、明治末には平取から富川へ木材を流送、王子製紙苫小牧工場の操業により林業が活性化します。
大正に入るとクローム鉄鉱採掘事業が本格的になり、朝鮮戦争時にピークを迎えますが昭和30年代に衰退しました。
日高有数の米どころ
トマト(ニシパ)やアスパラガス・メロンなどを栽培し、日高有数の米どころで地酒も販売されています。
乳肉牛も飼育し、黒毛和牛は「びらとり和牛」として出荷、
養豚も行われ平取広葉樹でスモークした手作りハム・ソーセージも製品化しています。
また、豊かな森林資源を活かして「アイヌ民芸」の木彫も製造されています。
芽生のスズラン群生地
日高山脈の最高峰幌尻岳(日本百名山)の登山玄関口に日本一のスズラン群生地があります。約15㌶の広さを誇り6月上旬をピークに花を咲かせます。
かつては全滅の危機がありましたが、10年の歳月をかけて自然の状態に回復させました。