十勝の野はかつてはアイヌ人の居住地でした。
寛政年間(1789年から1801年)に、江戸幕府の命で蝦夷地調査にあたった探検家たちにより、豊かな平原を持つオペレペレケプの名として知られることとなりました。
しかし、市の開基は遅く明治16年になります。
明治15年、静岡(西伊豆)の豪農依田家が設立した晩成社が、翌年入植したことにはじまります。
慶應義塾に学んだ依田勉三が鈴木銃太郎・渡辺勝らと結成し、下調査の結果、移住地を下帯広と決定し13戸27人で入植したものです。
ところが、イナゴの大群やマラリアに苦しめられ、初年度は目的の1割も達成できませんでした。
更に、交通・流通の不便と社内の意思統一がならず、この地での開拓は失敗に終わります。渡辺は然別に、鈴木は芽室の西士狩、依田は生花苗にと袂を分かつことになります。
晩成社は実質的な成果を上げることはできませんでしたが、十勝の豊かな地を広く知らしめる役割を果たしました。
明治25年、北海道集治監釧路分監帯広仮監が設けられ、囚人が開墾や道路工事に従事し町が開けていきました。
明治38年、帯広~釧路、二年後に旭川~帯広間に鉄道が開通し町の発展に寄与しました。
明治35年町制、昭和8年に市制施行となりました。
大型農業経営
年間を通じて晴天の日数が多く降水量が少ない気象条件の中、早くから大型農業を行ってきました。十勝地方の政治・経済・文化の中心地です。
昭和32年に編入された川西・大正地区は有数の畑作・酪農地帯でマメ類・ジャガイモ・ビートの産地です。
八千代町には公共育成牧場があり、976㌶の総面積に乳牛・綿羊が放牧され、畜産加工も行っています。
特産の豆類、乳製品を活かして「菓子のおいしい街」としても定評があります。