おくしり町名の由来は、アイヌ語のイク・シリ(向こうの島)から当て字したものです。

武田信広

1454年(享徳3年)、松前藩祖・武田信広が家臣を従え、南部大畑より蝦夷に向かう途中嵐に遭い奥尻に漂着、しばらく滞在したといわれ、その時彼らに接した漁師三平が当時この地に在住していた和人の先駆と伝えられています。

16世紀ころからアイヌ人がオットセイを狩猟しており1689年には檜山奉行赤石豊左衛門の管理下に置かれ、その後オクリシ場所を設置。

19世紀半には青苗に膃肭臍(おっとせい)奉行が置かれ、幕府に献上するオットセイを徴収したとされています。

明治に入り、後志国奥尻郡となり、福岡藩の支配地として本陣を置き、支配人の岡本三郎は家族とともに移住しましたが、廃藩置県で罷免となりました。

明治10年、宇苗長造が函館から青苗に移転し、漁業に従事。国有林の払い下げを受けたり、水稲の試作にも成功。「ほたて貝柱」の製造を始め島の特産物となりました。青苗・薬師村の総代を30年務めました。
明治18年、不漁時に酒に溺れる漁師を戒めるため、当時の戸長(町長)が罰金付きの禁酒令(~1890年)を出す。

明治39年-釣懸村、赤石村、青苗村、薬師村が合併し奥尻村。
昭和41年、町制を施行して奥尻町となりました。

うにまるのモニュメント

島の基幹産業は、古くから水産業が盛んで「夢の島」「宝の島」と呼ばれ、明治末期まではニシン漁が主体でしたが、近年はイカやホッケの近海漁業や、ウニ、アワビを中心とした磯根漁業が主であり、その豊富な海の幸を求めて観光客が増え、水産業と観光業に力が注がれています。
江差・せたな間の定期フェリー就航など、交通面を中心に島の生活環境の整備も進んでいましたが、平成5年「北海道南西沖地震」で壊滅的な被害を受けました。

「奥尻町災害復興計画」に沿った防災対策をはじめとする復興をわずか5年間で果たすことができ、平成10年に「完全復興宣言」。

鍋釣岩(なべつるいわ)

鍋釣岩は、奥尻島のシンボルです。真ん中に穴の開いた不思議な形をしているのですが安山岩の貫入岩です。
元々は大きな岩体でしたが長年の波に洗われて小さくなり、そのうち真ん中がぽっかりと穴になってしまったわけです。
北海道南西沖地震で被害を受け、コンクリを注入して今の形をとどめています。鍋釣岩の上に生えている木は、ヒロハヘビノボラズと言う木です。