端野町(たんのちょう)は、北海道網走支庁管内の常呂郡に存在した町です。2006年(平成18年)3月5日に北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となりました。
明治24年(1891)に札幌~網走間の中央道路開削工事が始まりました。
端野は現在の国道39号に当たります。特に北見側は石狩側の5培の死者を出し囚人道路と言われています。
鎖付きの遺体に土をかけた場所を住民は「鎖塚」と呼びました。
開拓が進むにつれ消滅し、現在はこの町の緋牛内(ひうしない)に3基だけが残っています。
昭和43年に地蔵尊をまつり8年後に碑と6地蔵を立て慰霊しています。
道路建設によって北見方面への移住者が増えました。
明治25年に2号端野駅逓を設置されます。この場所がヌッケシコタンに近くヌツケシ(野の端)から端野と呼ばれ、この名称が今日の町名由来となります。しかし、明治38年に緋牛内に移転しています。
明治28年に端野に植民区画が測定され貸し付けを始めました。
端野の屯田兵は明治30年100戸が入りました(現在の端野町字一区に33戸・字二区に34戸・字三区に33戸)。
翌年にも100戸が入植(現在の字一区に31戸・字二区に36戸・字三区に33戸)
屯田兵の出身地は青森から九州まで31県に達しています。
明治31年に屯田兵として入った渡辺繁三が網走からホルストイン一頭を入れ飼育しこれが酪農の始まりといわれています。渡辺は後に訓子府に転出し、訓子府における酪農の先駆となりました。
明治34年に村田善松が稲作を試作。明治40年代から本格化し大正末に灌漑溝も設置、作付けが急増しました。
大正元年(1912)に網走線が全通し、人も物も活発になり農業を中心に地域が活性化します。
また、湧別線も開通、ハッカや豆の好景気により農業が発達し大正10年に野付牛から分村しました。
網走支庁管内のほぼ中央に位置し、オホーツク海岸から約40km内陸に入った北見盆地東端の町です。
南西部は平坦な水田地帯が広がり、北・東・西部は山に囲まれた丘陵し常呂川が町を南北に縦貫しています。