なかがわ名の由来は中川郡の郡名から。
上川支庁の最北部に位置します。因みに最南端は占冠村です。

明治29年ごろ北村恭助がペンケシップ川のほとりに住んでいたとされており、これが和人の最初とされています。
北村は明治40年にアベシナイ駅逓が開設された際に取扱人になりました。

松浦武四郎 天塩日誌

(松浦武四郎の天塩日誌に「安政4年(1858)6月7日、松浦武四郎は土人3人をつれて、丸木船で天塩川を遡り、10日夜アベシナイに泊まった。宿泊地はペンケシップ川の川口、アイヌ部落付近であった」ペンケシップとは、三つの川の合流点の1番手前の小さな川のこと)

明治31年、土木技師の近藤虎五郎が天塩川の調査をしたときはアベシナイに5~6戸のアイヌの家族が住み、佐々木元八がアベシナイ・ポンピラの管理をしていたといいます。
同じごろ野村猪太郎が現大富で商いをし渡船で運送をしており、明治36年に御料地の貸し付けが始まる前に、貝瀬源八らが日本海の遠別や天塩、美深方面から山を越えて移住していました。

天塩川沿岸の未開地1万㌶余が明治30年御料地に編入され、これが天塩御料地で、このうち7㌶余が中川御料地と呼ばれていました。
明治36年に御料地の貸付開始が町の始まり、29人が借受けているのですが実際にはそれ以上でした。中川村が置村され富山・岐阜県人などの移住により村としての歴史が始まります。

明治30年頃、アイヌの集落が遠富内にありましたが、和人が入植することでそれも和人の土地となり、多くのアイヌは名寄の内渕に移住しました。

ピンネシリ街道

大正元年、音威子府(おといねっぷ)まで鉄道が開通し、4年後には天北線が中頓別まで開通します。
中川村では通称北見山脈を越えて敏音知(ぴんねしり)に農作物を出荷するようになり「ピンネシリ街道」を開削しました。

大正11年、宗谷線が誉平駅(現天塩中川)まで開通し、更に4年後稚内まで鉄道が全通、役場も移転し中心市街地が形成され発展していきます。
農作物の搬出も容易となり、明治末から大正期に盛んに行われた天塩川の木材流送も鉄道輸送に代わり林業も発展しました。

クビナガリュウの化石発見地

クビナガリュウ

中川町の地層は白亜紀(およそ1億~7200万年前)が多くみられます。
昭和48年と平成3年にクビナガリュウの化石が発見されました。
昭和48年に発見されたクビナガリュウの化石は、全長8メートルと推定されています。また、生息時代は約8000万年前で、むかわ町(旧穂別町)や小平町で発掘されたクビナガリュウ化石と同じ時代です。

平成3年に発見されたクビナガリュウはこれよりさらに大きく、全長11メートルこれは国内では最大です。
また、町の川原から発見されたアンモナイト化石も数多くあります。
これらは1999年に廃校となった佐久中学校の校舎をエコミュージアムセンターとして展示されています。宿泊施設(60名)としても利用できます。