穂別町(ほべつちょう)は、夕張山地南部,苫小牧市の東方に位置し,胆振支庁管内勇払郡に設置されていた町です。鵡(む)川中流域を占め,町域の約90%は山林です。穂別町の南にある鵡川町と2006年3月27日に合併し新町名をむかわ町となりました。
町名は現在の穂別川を指すアイヌ語に由来します。
穂別の地は、松前藩が成立した17世紀初めより商いの場として鵡川場所が開設され、鵡川の上流地域である上鵡川場所がありました。
1700年代末には約100人のアイヌ人が山住し干しザケ・シイタケを採っていたといいます。後に勇払場所に含まれますが、交易だけでアイヌ人がコタンを形成、狩猟のかたわらアワ・ヒエを耕作していました。
明治初期に高知藩による短期間の分領支配がありましたが、明治8年似湾村に布施健蔵が入ったという記録があり、この頃から和人が入り出したと思われます。
明治25年、現在の仁和に伊達に士族として入植した星進一家が来往したのをはじめ大江鹿蔵らが入っています。
室蘭線の開通により、次第に入植者が増えはじめ、特に、国有未開地処分法で無償付与制をとったため農場の発展を促し似和の杉田農場をはじめ移住が増加しました。
明治45年に稲里地区が道庁の模範集落に選定されるほど農業が発展しました。
明治26年に入った新潟出身の中村平八郎が油源を発見。
しかし、明治31年の鵡川の氾濫被害で中村は大きな損害を受け事業は中止。
その後、水島鉱山なども発掘事業にあたりますが閉山しています。
1923年(大正12年)鉄道(国鉄富内線,1986廃止)が辺富内(現在の富内)まで開通し,開拓が進んで人口が急増します。
また穂別炭鉱(現・杵臼)が1945年に開坑し,最盛時の1961年には人口1万を超えましたが,1965年には閉山し人口も半減しました。
昔は海の底
昭和50年、地元のアンモナイト収集家により発見された骨の化石が「クビナガリュウ」のヒレ足の一部とわかり、ホベツアラキリュウとして認められました。
その後発掘されたデスモスチルスの歯、ホベツモササウルスの前肢、アンモナイトの化石などとともに町立博物館に展示されており、この地は太古は海だったということを証明しています。