1701年、松前藩は霧多布場所(現在の浜中町)を開設しました。これによって知床のアイヌ人は霧多布で交易を行っていました。1774年に飛騨屋久兵衛が松前藩から霧多布他3場所の請負人となり、後に羅臼の地は根室場所に属していきます。
明治に入ると、この場所請負は漁場持制度となり、その後廃止され営業希望者に割譲し一般への門戸を開きます。しかし、請負人であった藤野喜兵衛の勢力が依然としてありました。
明治2年、佐藤九右衛門が藤野の漁場責任者として羅臼に定住していましたが、後に漁業を営み港湾修築等に尽力します。明治12年ごろの和人は2戸に過ぎず、以後東北地方から移住者が増えてきました。新たな漁場を開拓しサケマスの他タラ漁も行われ、ニシン建網の成功により明治25年から富山の移住者が増えてきました。
明治30年代から根室地方のニシンが減少しましたが、この目梨郡は収穫をあげ昭和に入るとコンブ漁が、更に戦後にはイカ漁も盛んになります。
昭和30年代からニシンが衰退したため、浅海増殖漁業を進めました。一方農業は進展がなく、戦後に千島からの引揚者が本格的に開墾に入り畑作を始めるのですが風土に合わず、昭和30年代からは乳牛飼育に転換します。
町名の由来はアイヌ語の「ラウシ」(獣の骨のある所の意)が転化したもの。この地一帯はアイヌの狩猟地でした。
1901年(明治34年):標津外6ケ村戸長役場(現在の標津町)から分離・独立し、植別村戸長役場設置。
大正12年:二級町村制施行し植別村となる。昭和5年・羅臼村と改称。知床半島の気候は尾根を境として斜里側と羅臼側で大きく異なっています。斜里町の方は、夏は暑く冬は寒さが厳しいのですが、羅臼側は夏は涼しく冬の寒さも斜里側ほどではありません。しかし、気候が不安定で強風が吹き降水量が多いのが特徴です。
羅臼の観光の魅力
観光船に乗り、夏はクジラ・シャチ・イルカウォッチング、冬は流氷と野鳥観察を楽しむことができます。これらを日本で見られる場所は少なく、特にマッコウクジラの雄は他ではなかなか見られません。羅臼の豊かな海はさまざまな野生動物たちとの出あいが期待できます。港から観察ポイントまでが近いことも、羅臼の大きな魅力のひとつです。
戸川 幸夫(とがわ ゆきお) ―オホーツク老人 動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させました。 「彦市はことし71歳。人生も終わりにきていて、今度が四度目の越冬である。この赤岩湾には九棟の番屋が建っていたが、断崖が背後も右も左も屏風のように立っていて、開放しているのは前面の蒼黒い海だけだ。そこからしばらく行ったところに、漁師たちから怖れられている知床岬があった。 |
熊の湯
古くから温泉が発見されていましたが、明治21年に作田繁蔵が温泉宿を開きます。そうして、戦後に本格的に温泉郷となりました。知床は秘境とはいえ忘れられたへき地でした。
しかし、戦後植物学者の調査にはじまり原始のままの自然が紹介されるにつれ人気を呼びます。
そのきっかけとなったのは、森繁久彌の「しれとこ旅情」のヒット曲で全国に名を知らしめることとなります。
羅臼岳
羅臼町は知床半島の南東部を占める日本百名山の一つ羅臼岳登山への玄関口です。
秘境ならではの自然豊かな地で、自然保護の数々の試みがおこなわれています。
背後の山がクマの生息地であるため、クマの出没が多いこの地では駆除中心のヒグマ対策から人間とクマの共存の道を探っています。