観光客が行かない「今金」の旅 
                 人口5,228(2019年3 月末)  

                           
今金町は北海道渡島半島の北部に位置し、南はユーラップ山系を挟んで八雲町と、北は狩場山系を介して島牧村、東は低い山地を経て長万部町と、西はせたな町と接しており、道南地域では珍しく海岸線がありません。
札幌市からは約180キロあり、函館市からは約120キロで道南圏に組み込まれています。

 

今金町は後志利別川の流れと豊かな自然の恩恵を受けながら、平成9年には自治体施行100周年及び町制施行50周年を迎えました。

いまかね町名の由来は、明治26年に入植した今村藤次郎と金森石郎の頭文字をとって付けたものです。明治30年瀬棚町から分離し利別村となり、昭和22年に改名して今金町となりました。

国土交通省の全国一級河川水質ランキングで過去10度の清流日本一に輝いた後志利別川は、町を南北に二分するように貫流しています。優良な農産物を産出する肥沃な土壌を形成し、アユやヤマメ等の川魚やカワセミ・サギなどの野鳥が訪れるなど、清流ならではの生態系が住民生活のすぐそばにあります。また、町内の約8割が山林で占められており、数多くの野鳥はもちろん、ヒグマやエゾシカ、タヌキやテンなどの野生動物、北限に近いブナの原生林等がいたるところで見られ、山菜の宝庫となっています。

カニカン岳

カニカン岳

江戸時代にカニカン岳の砂金採取が、この地の開拓のはじまりで、この砂金は日光東照宮の造営にも用いられました。
明治30年、瀬棚村から分村し利別村となってからマンガン採掘が本格化し人口が増えていきました。それ以前の明治24年に犬養毅が政治資金を得るために利別原野で大農式開墾を行いましたが失敗しています。

インヌマ教会

明治24年、現在の神丘地区に京都府のキリスト教徒が入植。牧師であるリーダーの同志社大学の志方之善が理想郷建設を計画。その後、妻である荻野吟子も渡道し、後に瀬棚に産科・小児科を開業しました。神丘地区には現在日本聖公会のイマヌエル協会が建っています。(花埋み参照)
1987年(昭和62年)3月16日に廃止された国鉄瀬棚線が町内を通っており、美利河駅、花石駅、北住吉駅、種川駅、今金駅、神丘駅の5駅が設置されていました。

花埋(はなうず)みー渡辺淳一 (今金町・せたな町)                                   
内浦湾(大平洋)の長万部町国縫から日本海に抜ける国道230号に沿って、かつて国鉄瀬棚 線が通っていました。その線上に今金町があり、終点が瀬棚町でした。                
この沿線が渡辺淳一の初期の代表作「花埋み」の舞台で、日本最初の女医で日本基督教矯風会の幹部だった荻野吟子の小説です。                                      
明治24年、同志社大学を出た志方之善は10名の仲間とともに、基督教徒の理想郷を作る べく瀬棚郡利別原野に入植しました。インマヌエル(神と共にいます)と名付け(現在の今金町神丘)、大木と密生している熊笹に挑みますが開拓は難事でした。                   

荻野吟子

東京の吟子が荻野医院をたたみ、夫の後を追ったのは明治27年。吟子、43歳で夫の之善は 14歳も年下でした。明治29年の夏、志方夫婦はインマヌエルを離れ、国縫でマンガン鉱の採 掘を目指しますが失敗に終わります。                                     
明治30年春、二人は瀬棚町に移り、吟子は「婦人科・小児科医院」を開業します。漁業戸数905、出稼ぎ漁夫2975人、江差と並ぶ有数の漁場で医院はこの年の暮れには患者も増えて生活も安定してきました。                                                                    
10年以上も前になりますが、今金町の「インマヌエル」と瀬棚町の「荻野医院跡地」を訪れたことがありました。今金町神丘は国道230号沿いにあり、インマヌエル教会には「今金町開拓発祥の地 インマヌエル之丘」の記念碑があり、荻野吟子の短歌が刻まれています。      
「雲はらふ風につけてもこの頃はとしべつ原の朝夕の空」 

瀬棚町の医院跡地には、ひっそりと碑が建てられていました。また、荻野吟子公園があり吟子のブロンズ像の顕彰碑があり、背後に座右銘「人その友の為に己の生命を損なう此れより大なる愛はなし」が刻まれています。
瀬棚町郷土館では「荻野吟子コーナー」があり、遺品や書簡などが展示されておりました。                                              


昭和40年の今金町が映っている映像(失われた風景)から

男爵イモ

地下資源が豊富で、かつてはマンガン鉱で美利河地区が栄えました。今は閉山し美利河ダム湖を中心に、宿泊施設も建ちリゾート地域に変わっています。また、美利河ダム建設中に大型海牛の化石が発見されています。当時、大理石は道庁の新校舎に使用されており、鉱石を利用して、ブローチ・灰皿、そうしてメノウが人気になった時代もありました。
農業人口の6割が農家で、桧山地域の米どころとして年間8憶の生産。土地の開発に農協が移動客土を導入して支援をしています。街の中心地の「農協デパート」が農家7000人の利便性を図っています。何から何まで店頭にあるので不自由しません。
酪農昭和34年に農林省から酪農の指定を受けて重要な役割を果たしてきました。酪農、特に牛になりますが原野を開拓して牧草地にしなければ牛の牧場になりません。そのために200ヘクタールを拓いたのです。今は明治乳業の工場ができて、1日40tの乳牛を集荷して、近代的な工場で乳製品を作っています。
アスパラと男爵イモ白いアスパラを農業生産として推奨をしています。価格が安定しており、昭和36年にアスパラ工場が作られました。今金だけではなく、5~7月の最盛期には七飯など近郊都市からも集めて缶詰にし、50%は外貨を稼いでいます。
馬鈴薯、今金は男爵イモの産地です。男爵イモ焼酎も開発され販売しています。この芋掘りですが、芋の取入れともなれば人海戦術で家族総出となるのですが、芋掘りに馬で引く芋掘り機械が写されています。これは貴重な映像でした。