明治政府の東北処分 3

最初の屯田兵、琴似へ初めの屯田兵として琴似へやって来たのは、 斗南藩と庄内藩(酒田県)の人々でした。

彼等には明治8年5月13日までに青森港へ出頭せよとの屯田事務局の通知が既にわたっており、集まった第一陣223名には同日「乗船の注意書」が手渡されます。
注意書には乗船の順番のほか、「便所の以外の場所で、大小便をしてはならない」といった細かな事まで記載されていました。

移住者の多くは、蒸気船に乗るのは初めての経験だったのでしょう。
また、これから向かう北海道のことなどほとんど知識がなく、ましてや「琴似」というのが、一体どんな場所なのか想像もできませんでした。
さて、翌14日午後3時に一行をのせた通済丸は青森を出航し、2日後の16日に小樽に入港します。彼等はその晩、小樽の宿屋、芝居小屋などで一泊しましたが、この時、これから入居する兵屋の番号のくじ引きも行われました

翌17日、小樽を徒歩で出発した一行は、銭函を経て36kmを踏破、琴似に入地したのは午後6時頃と記録されています。
琴似に着いて彼等がまず見たのは、整然と建ち並ぶ兵屋でした。

「開拓使最初の屯田兵」に以下のような記述があります。

「時は本道は草萌え出ずる頃、亭々たる柏の密林の中に建てられたるささやかな此の兵屋に落ち付き、遥か故郷を後にして始めて蝦夷地の風景に接した人々は、荒涼寂漠たる感があったが、これ我が住居なりと思へば、いささか慰められ安堵の思を為し、将来に対する希望が湧き出たといふことである」

屯田兵舎(写真は士別のですが兵舎の構造はどこも同じです)