亀井勝一郎生誕地碑ー函館市
明治40年2月に函館元町で生まれました。勝一郎の祖先は嘉永年間に能登半島より移住し、勝一郎が生まれた時、父喜一郎は函館貯蓄銀行の支配人をしていました。啄木が函館に来たのは明治40年5月なので、その三か月前に誕生しています。
ハリストス正教会の坂下で、勝一郎の生家付近を描写した「東海の小島の思い出」の一節が碑に刻んであります。
(碑文・表)
私の家のすぐ隣は、フランスの神父のいるローマカソリック教会堂であった その隣はロシヤ系のハリストス正教会である。
この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メートルほどの塔をもっているので、船で港へはいるとすぐ目につく。
ハリストス正教会の前には、イギリス系の聖公会があり やや坂を下ったところにはアメリカ系のメソヂスト教会がある。
私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだててわが家の門前にある。また同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下ったところには、中国領事館があって、ここは道教の廟堂を兼ねていた。
要するに世界中の宗教が私の家を中心に集まっていたようなもので、私は幼少年
時代を、これら教会や寺院を遊び場として過ごしたのである。
″東海の小島の思い出″の一節より
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。