石川啄木一族の墓ー函館市
石川啄木は一年の北海道滞在でしかありませんでしたが、啄木の歌碑は40基ほどあり、故郷の岩手県の80基に次いでいます。
啄木の足跡順に町を上げると、函館→倶知安→札幌→小樽→北村→滝川→旭川→新得→釧路→阿寒となりダントツに多いのが釧路の23基です。
函館には4基ですが、函館が一番ゆかりの地といえるでしょう。
21歳の啄木が「石をもと追わるるごとく」故郷をあとにして、函館の青柳町に住み、文芸雑誌の編集に携わり、函館商業会議臨時雇、函館区立弥生尋常小学校代用教員、「函館日日新聞」遊軍記者などを勤め、ようやく家族をまとめましたが、函館大火に追われるようにして函館を去り札幌に向かいます。
四ケ月ほどの函館生活でしたが、のちの義弟宮崎郁雨にあてて「僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいやうに思ふ」(墓碑陰に刻まれている手紙の一節)というように、第二の故郷でした。
「啄木一族墓」が立待岬の共同墓地に建ったのは大正15年8月1日でした。
樺太の北緯50度に建った日露境界標の形を模して
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
の短歌が自筆を拡大して刻まれています。
青柳町の函館公園には
「函館の青柳町こそかなしかれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
が建っています。家族と共に公園前通りに住んでいたので、啄木通りと言われています。