冬の派閥・城山三郎ー八雲町

道南の八雲町は、明治11年に旧尾張藩主(名古屋)徳川慶勝の指示によって家臣団が開拓したことでスタートを切りました。
名古屋生まれの城山三郎の「冬の派閥」はこの史実をもとにした小説です。

物語は後半に入って舞台が八雲に移ります。慶勝は明治も10年になって「新政府は、その広大な土地の開拓を急ごうとしている。旧尾張藩としても、外の諸藩におくれをとりたくない」との思いで、その年に三人を開拓地探索に向かわせました。結果、「函館より北の直線距離で約50㌔、噴火湾に面したユーラップかいわいを候補地として選んだ」
原野の下付を願い出て許可を得、所帯持ち15戸72人、単身者10人が明治11年10月6日に到着しました。
慶勝は須佐之男命(スサノオノミコト)の歌とされる「八雲立つ八雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」からとって、〖八雲〗と命名しました。

「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。

城山三郎のあとがきから

「朝命とは、まだ十代の身には、絶対の正義、そして、ゆるぎないものに思えた。朝命を奉じ、命をすてて鬼畜米英を撃つ―それ以外に生きがいはない、と思った。太平洋戦争下、まだ十代のわたしの命がけの経験であった。
終戦、そして復員して、その朝命が、まるで朝の露のように空しく消えて行ったときの衝撃と悲しみ。大義のいいかげんさとでもいってよいそのことが、わたしの文学の出発点となったのだが、朝命に生き、朝命に翻弄されたのは、あの時代のわたしたちだけではなかった。

 幕末の尾張藩をゆさぶった二つの選択、そして二派の争い。その争いに、問答無用の決着をつけたのも、また朝命であった。そして、両派はそれぞれに深い手傷を負うことになった。
 朝命とは、いったい何なのか。組織にとっての絶対の正義は存在するのか。正義とは、いったい何なのか。
 朝命は、つくられ、操作された。指導者をはじめ、うすうすそれに感づいている人もあったが、しかも、朝命は強行された。何故、そして、その代償は。

 その意味で、この作品はまた、指導者の在り方を問うことにもなった。
 誠実な名君でもあった尾張慶勝にいま少しの指導力、あるいは政治性があれば、朝命を待たずして、派閥争いも収拾できたのではないか。
 だが、事は簡単ではない。政治性がありすぎれば、より大きな悲劇を招いたかも知れない。
 その一方には、指導力を放棄する形での徳川慶喜の悠々たる保身がある。
 いまも、人は好むと好まざるとにかかわらず、組織に組みこまれている。金鉄組も、ふいご党も、いまに生きている。
  慶勝に似た指導者も、慶喜に似た将もあるであろう。そうした将の下で、組織に組みこまれながら、人はなお生きねばならない。
 本書は、歴史小説であるとともに、現代における組織と人間の在りようへの問いかけでもあった。
                         昭和五十六年十二月